与倉知実とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 与倉知実の意味・解説 

与倉知実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 05:04 UTC 版)

与倉 知実(よくら ともざね、生年不詳 - 1877年明治10年)2月23日)は、江戸時代後期(幕末)の薩摩藩士。明治時代前期の陸軍軍人である。最終階級は陸軍中佐。通称は彦八

経歴

薩摩・鹿児島藩の出身。

明治4年(1871年)7月に陸軍大尉、明治5年(1872年)8月に陸軍少佐(2番大隊長)、明治6年(1873年)2月に近衛歩兵第4大隊長を経たのち、明治8年(1875年)2月、陸軍中佐・歩兵第13連隊長となった。

明治9年(1875年10月24日神風連の乱では、自宅を神風連・中垣景澄ら8人の襲撃を受けるが、妻・鶴子の機転で馬丁を装ってその場を脱出した。その後は大兵営の歩兵第13連隊を率いて鎮圧をはかった。

しかし、明治10年(1877年)の西南戦争「段山(だにやま)の戦い」で被弾した。同じ日、鶴子は熊本城で女子を出産したが、与倉は翌日死去した。

家族

妻は鶴子で、宮崎出身の養嗣子に後の陸軍中将与倉喜平がいる。

出典

「神風党の乱」―そのとき警察は― (非売品) ほか




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「与倉知実」の関連用語

与倉知実のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



与倉知実のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの与倉知実 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS