与倉喜平
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与倉 喜平(よくら きへい、1865年11月2日(慶応元年9月15日[1])- 1919年(大正8年)6月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将[2]、宮崎県出身[2]。旧姓・中万[3]。
人物
日向国(宮崎県)で中万弥九郎の二男として生まれる[1]。1894年(明治27年)5月、故与倉知実陸軍中佐の長女・幹(みき)と結婚し与倉家の家督を相続した[1][3]。
陸軍士官学校(旧10期)、陸軍大学校(11期)を卒業後、累進して1907年(明治40年)歩兵第1連隊付(中佐)となり、のち陸軍歩兵大佐に昇進して同連隊長を拝命する。その後、中清派遣隊司令官等を経て陸軍少将となり、歩兵第35旅団長や陸軍士官学校校長(第20代)を務めた。1918年(大正7年)7月24日に陸軍中将になったが、翌年待命中に卒去した。
経歴
- 1888年(明治21年)7月28日 – 陸軍士官学校(旧10期) 卒業[2]
- 1888年(明治25年)12月 – 陸軍大学校(11期) 入学[2]
- 1907年(明治40年)11月5日 – 補 歩兵第1連隊付[4]
- 歩兵第1連隊長(陸軍歩兵大佐)
- 1912年(明治45年)3月5日 – 補 中清派遣隊司令官[2][5]
- 1913年(大正2年)9月30日 – 任 陸軍少将、補 歩兵第35旅団長[2][6]
- 1915年(大正4年)2月15日 – 補 陸軍士官学校 校長[2][7]
- 1918年(大正7年)7月24日 – 任 陸軍中将[2][8]
- 1919年(大正8年)
栄典
- 位階
- 勲章等
脚注
- ^ a b c 『人事興信録 第4版』よ2頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官総覧』145頁
- ^ a b 『薩摩の武人たち』48頁。
- ^ 『官報』第7308号「叙任及辞令」1907年11月6日。
- ^ 『官報』第8611号「叙任及辞令」1912年3月6日。
- ^ 『官報』第353号「叙任及辞令」1913年10月1日。
- ^ 『官報』第760号「叙任及辞令」1915年2月16日。
- ^ 『官報』第1794号「叙任及辞令」1918年7月25日。
- ^ 『官報』第150号「叙任及辞令」1913年1月31日。
- ^ 『官報』第1671号「叙任及辞令」1918年3月1日。
- ^ 『官報』第2048号「叙任及辞令」1919年6月3日。
- ^ 『官報』第6728号「叙任及辞令」1905年12月2日。
参考文献
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