城東会戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
薩軍諸隊が熊本城・植木から逐次撤退してきた4月17日、桐野らは本営木山を中心に、右翼は大津・長嶺・保田窪・健軍、左翼は御船に亘る20km余りの新たな防衛線を築き、ここで南下する征討軍を迎え撃ち、官軍を全滅させる作戦をとることにした。この時に薩軍が本営の木山(益城町)を囲む形で肥後平野の北から南に部署した諸隊は以下のような配置をしていた。(計約8,000名) 大津 - 野村忍介指揮諸隊 長嶺 - 貴島清指揮貴島隊および薩軍6個中隊 保田窪 - 中島健彦指揮5個中隊および福島隊 健軍 - 河野主一郎指揮5個中隊および延岡隊(約750名) 木山 - 薩軍本営 御船 - 坂元仲平指揮20個中隊(計約1,300名) 対する官軍も、山縣参軍らが熊本城で行った軍議で各旅団を次のように部署した。(計約30,000名) 片川瀬 - 第3旅団 竹迫 - 第1旅団 立田山 - 別働第5旅団 熊本城東部 - 熊本鎮台 熊本城 - 第4旅団(予備軍として) 川尻 - 別働第1旅団 隈庄 - 別働第2旅団 堅志田 - 別働第3旅団 八代 - 別働第4旅団 薩軍最右翼の大津へは野村忍介指揮の部隊が配備された。4月20日黎明、第1・第2・第3旅団は連繋して大津街道に進撃したが、野村の諸隊は奮戦してこれを防ぎ、そのまま日没に及んだ。 4月19日、熊本鎮台・別働第5旅団・別働第2旅団は連繋して健軍地区の延岡隊を攻めた。延岡隊は京塚を守って健闘したが、弾薬が尽きたので後線に退き、替わって河野主一郎の中隊が逆襲して征討軍を撃破した。征討軍は別働第1旅団からの援軍を得たが、苦戦をいかんともしがたかった。征討軍はさらに援軍を得てやっとのことで薩軍の2塁を奪ったが、薩軍優位のまま日没になった。 別働第5旅団の主力は4月20日、保田窪地区の薩軍を攻めた。午後3時には猛烈な火力を集中して薩軍の先陣を突破して後陣に迫ったが、中島が指揮する薩軍の逆襲で左翼部隊が総崩れとなった。腹背に攻撃を受けた征討軍は漸く包囲を脱して後退した。この結果、別働第5旅団と熊本鎮台の連絡は夜になっても絶たれたままになった。 長嶺地区の貴島は抜刀隊を率いて勇進し、別働第5旅団の左翼を突破して熊本城へ突入する勢いを見せた。熊本城にいた山縣参軍は品川弥二郎大書記官からの官軍苦戦の報告と大山巌少将からの薩軍が熊本に突出する虞れがあるとの報告を聞き、急遽熊本城にあった予備隊第4旅団を戦線に投入するありさまであった。 薩軍最左翼の御船へは坂元指揮の諸隊が熊本に入った征討軍と入れ替わる形で進駐していた。別働第3旅団は4月17日、熊本から引き返して来て御船を攻めた。坂元の諸隊はこの攻撃は退けたが、それに続く別働第1・第2・第3旅団の西・南・東からの包囲攻撃には堪えきれず、御船から敗れ去った。 このように両軍の衝突は4月19、20日に征討軍が薩軍に攻撃を仕掛けたことから始まり、戦いは一挙に熊本平野全域に及んだ。先に薩軍最左翼の御船が敗れ、20日夜半には最右翼の大津の野村部隊も退却したので、翌21日早朝、第1・第2旅団は大津に進入し、次いで薩軍を追撃して戸嶋・道明・小谷から木山に向かい、小戦を重ねて木山に進出した。第3旅団は大津に進出してここに本営を移した。 このように「城東会戦」では、薩軍は左翼では敗れたものの、右翼の長嶺・保田窪・健軍では終始優勢な状況にあった。しかし征討軍は最右翼の大津と最左翼の御船から薩軍本営の木山を挟撃する情勢になった。これに対し桐野は木山を死所に決戦をする気でいた。しかし、野村忍介・池辺の必死の説得で桐野は遂に翻意し、撤退し本営を東方の矢部浜町へ移転することに決し、自ら薩軍退却の殿りを務めた。こうして本営が浜町に後退したために、優勢だった薩軍右翼各隊も東方へ後退せざるを得なくなり、関ヶ原の戦い以来最大の野戦であった「城東会戦」はわずか一日の戦闘で決着がついた。
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