奥保鞏
奥保鞏 おく やすかた
福岡生まれ。陸軍軍人。小倉藩士の子。明治4年(1871)陸軍大尉心得。佐賀の乱、台湾出兵に参加。西南戦争では歩兵13連隊大隊長として熊本城に籠城。日清戦争では野津道貫の後任として第5師団長となる。第1師団長、近衛師団長、東京防御総督を歴任。36年(1903)大将。日露戦争には第2軍司令官として出征。40年(1907)伯爵。44年(1911)元帥。
キーワード | 陸軍軍人 |
---|
(注:この情報は、国立国会図書館ホームページ内の「近代日本人の肖像」の内容を転載しております。掲載内容の複製については、国立国会図書館の許諾を得る必要があります。)
奥保鞏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/10 23:21 UTC 版)
奥 保鞏(おく やすかた、弘化3年11月19日(1847年1月5日) - 昭和5年(1930年)7月19日)は、日本の陸軍軍人[1]。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級伯爵。 皇族、薩長出身者以外で最初の元帥となった[2]。
- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、488頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)7頁
- ^ ご臨終の場に三元帥『大阪毎日新聞』昭和元年12月26日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p362 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 日露戦争の生き残りの元帥、死去『東京朝日新聞』昭和5年7月30日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p36)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 「元帥陸軍大将正二位大勲位功一級伯爵奥保鞏特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11114015000
- ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
- ^ 『官報』第2584号「叙任及辞令」1892年2月15日。
- ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
- ^ 『官報』第5740号「叙任及辞令」1902年8月21日。
- ^ 『官報』第7253号「叙任及辞令」1907年8月31日。
- ^ 『官報』第635号「叙任及辞令」1914年9月11日。
- ^ 『官報』第1068号「叙任及辞令」1930年7月22日。
- ^ 『官報』第562号「賞勲叙任」1885年5月19日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第2971号「叙任及辞令」1893年5月27日。
- ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
- ^ 『官報』第3900号・付録「辞令」1896年6月30日。
- ^ 『官報』第5072号「叙任及辞令」1900年6月1日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第8505号「敍任及辞令」1911年10月25日。
- ^ 『官報』第813号「宮廷録事 - 恩賜並追賜」1915年4月21日。
- ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
- ^ 『官報』第3717号「宮廷録事 - 恩賜」1925年1月15日。
- ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
- ^ 『官報』第2357号、明治24年5月12日。
- ^ 『官報』第2378号「叙任及辞令」1891年6月5日。
- ^ 『官報』第7940号、明治42年12月10日。
- ^ 『官報』第4077号、大正15年3月30日。
- 1 奥保鞏とは
- 2 奥保鞏の概要
- 3 人物像
- 4 栄典・授章・授賞
- 5 親族
奥保鞏と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 奥保鞏のページへのリンク