奥保鞏とは? わかりやすく解説

奥保鞏 おく やすかた

奥保鞏の肖像 その1

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奥保鞏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/19 03:30 UTC 版)

おく 保鞏 やすかた
渾名 南山の奥
生誕 1847年1月5日
江戸幕府豊前国小倉藩
死没 (1930-07-19) 1930年7月19日(83歳没)
日本東京府
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1871年 - 1930年
最終階級 元帥陸軍大将
勲章 勲一等旭日桐花大綬章
墓所 青山霊園
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1897年
1909年

奥 保鞏(おく やすかた、弘化3年11月19日1847年1月5日〉- 昭和5年〈1930年7月19日)は、日本陸軍軍人[1]。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級伯爵。 皇族、薩長出身者以外で最初の元帥となった[2]

生涯

豊前(現在の福岡県小倉藩小笠原家家臣の奥利右衛門保矩の長男として小倉(現在の北九州市)に生まれる。幼名為次郎。15歳のとき本家・奥保義の養子となり家督を継ぐ。家系の詳細については奥家 (伯爵家)を参照。

馬廻・知行300石となって七郎左衛門と改名。小姓、物頭を務めた。

幕末幕府側に立つ主家に従い、長州征討に参加。明治2年(1869年)1月に足軽隊長となり、翌月、東京に遊学。明治4年(1871年)5月、常備4番小隊長に就任。同年6月、陸軍に入営し西海鎮台2番大隊小隊長に着任。同年11月、陸軍大尉心得となり鎮西鎮台(後の熊本鎮台)に所属。明治5年(1872年)4月、陸軍大尉に昇進し鹿児島分営所に配属。

明治6年(1873年)8月、熊本鎮台中隊長に異動し、佐賀の乱に出征し戦傷を受けた。明治7年(1874年)6月、陸軍少佐に進級し歩兵第11大隊長に就任。同年8月、台湾出兵に従軍。明治8年(1875年)2月、歩兵第13連隊大隊長となり神風連の乱の平定に参加。

明治10年(1877年)2月、西南戦争に出征し、2月21日からの熊本城籠城戦に参加。4月8日未明、歩兵1個大隊を率いて薩摩軍の包囲を突破し、薩摩軍の後方に上陸した政府軍(衝背軍)との連絡に成功した。この際、敵弾が口から頬にかけて貫通したが、左手で傷口を押さえ右手で軍刀を持ってひるまず指揮した。4月20日、熊本鎮台歩兵第14連隊長心得となる。

明治11年(1878年)11月、陸軍中佐に進級し歩兵第14連隊長に就任。歩兵第10連隊長に異動し、明治15年(1882年)2月、陸軍大佐に昇進。近衛歩兵第2連隊長を経て、明治18年(1885年)5月、陸軍少将に進級し歩兵第7旅団長に着任。近衛歩兵第1旅団長、東宮武官長、近衛歩兵第2旅団長を歴任。明治27年(1894年)2月から9月まで欧州に出張。

明治27年(1894年)11月、野津道貫の後任として第5師団長となり、翌月、日清戦争に出征。明治28年(1895年)8月、軍功により男爵を叙爵し華族となる。明治29年(1896年)10月14日に第1師団長、明治30年(1897年)10月27日に近衛師団長に発令。その後、東京防御総督東部都督を歴任。明治35年(1902年)10月、インドに出張し、翌年3月に帰国。明治36年(1903年)11月、陸軍大将に進級。

明治37年(1904年)1月、軍事参議官に就任したが、同年3月、日露戦争開戦に伴い第2軍司令官として出征(戦歴は後述)。なお、森林太郎(鷗外)が、第2軍軍医部長として幕下にいた。

明治39年(1906年)1月、軍事参議官となり、同年7月、急逝した児玉源太郎の後任として参謀総長に就任。明治40年(1907年)9月、伯爵に叙せられ、明治44年(1911年)10月、元帥府に列せらる。明治45年(1912年)2月、議定官に就任。

昭和5年(1930年)7月19日、脳出血により死去[3]。享年85(数え)。

日露戦争での戦歴

南山の戦い

第2軍は第1師団第3師団第4師団騎兵第1旅団で編成され、遼東半島における拠点として大連を確保することを目的とした。

5月5日から13日にかけて遼東半島に上陸し、5月26日午前5時からロシア軍の陣地である南山への攻撃を開始した。第2軍はロシア軍の堅固な防塁と機関銃の斉射により大苦戦となったが、奥は攻撃を断念せず苛烈に攻めた。午後5時になり海軍砲艦による艦砲射撃も加えた突撃を行い、午後8時にようやく南山を占領した。この時の死傷者は4,387名にのぼり、損害数を聞いた東京の大本営は「ゼロが1つ多すぎるのではないか」と耳を疑ったという。この戦いにより、「南山の奥」としてさらに勇名を馳せることになった。

得利寺の戦い

大連占領後、旅順攻撃を行う第3軍へ第1師団が移り、編成替えにより第3師団、第4師団、第5師団、野戦砲兵第1旅団、騎兵第1旅団を指揮下とし、第2軍は遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍4万と遼陽南方210キロメートルにある得利寺で激突した。2日間にわたる戦闘で、第2軍は側面攻撃を有効に用いて自軍より兵力の大きいロシア軍を撃退した。これにより、旅順要塞の孤立が決定的になった。

遼陽会戦

得利寺での勝利後、新たに第6師団を指揮下に加え、蓋平、大石橋での戦闘に勝利した。その後第5師団が第4軍指揮下となって去ったが、8月4日までに遼陽をうかがう位置まで前進した。24日の第1軍に続き、第2軍は第4軍とともに25日に作戦行動を開始した。鞍山站は抵抗なく占領でき、続いて攻めかかった首山堡は頑強な抵抗に遭遇し、屍山血河の惨烈な戦闘となった。後に陸軍の軍神第1号となった第3師団歩兵第34連隊第1大隊長の橘周太少佐が戦死したのも、この首山堡であった。31日朝に1度占領するも奪還され、第2軍は崩壊の危機に面したが、9月1日の第1軍によるロシア軍左翼への側面攻撃に動揺したロシア軍を追撃し、4日朝までに遼陽一帯を占領することができた。

沙河会戦

10月2日、日本軍の補給欠乏を見越したロシア軍が反転攻勢に出た。迎え撃つ日本軍は右翼第1軍を軸とした旋回包囲作戦を開始し、左翼の第2軍は10日より果然前進した。特に13日から14日にかけて、沙河中国語版左岸一帯において夜襲につぐ夜襲という猛烈な攻撃をかけた。この攻撃により、ロシア軍首脳部は大きな誤解をした。日本軍には豊富な予備隊があるに違いないと判断したのである。さらに17日まで攻撃を続行すると、ロシア軍は退却を開始した。しかし戦力の限界にあった第2軍に追撃する余力はなかった。

黒溝台会戦

1月25日、日本軍最左翼を守備していた第2軍所属の秋山支隊8,000(秋山好古少将指揮、騎兵第1旅団を中核とした歩・砲・工兵混成部隊)にロシア軍10万が攻撃を開始した。秋山支隊は右翼から李大人屯、韓山台、沈旦堡、黒溝台の4陣地を軸として頑強に抵抗し、満洲軍総司令部は予備隊の第8師団を援軍として急派したが、第8師団司令部の敵情誤断により黒溝台陣地の放棄を強制され、しかも第8師団自体も26日に逆襲包囲されるという事態に陥った。第2軍は靡下の第3師団を派遣したが、満洲軍総司令部の兵力逐次投入、急遽臨時軍(臨時立見軍:第8師団長・立見尚文中将が臨時司令官)編成という愚策に踊らされ、速やかな作戦行動ができなくなった。ようやく28日にいたり、第3師団と第5師団が秋山支隊右翼陣地のロシア軍を撃退した。黒溝台陣地も第8師団及び第5師団による大夜襲を決行し、ロシア軍は潰走した。

奉天会戦

2月22日に鴨緑江軍による行動開始に始まり、第2軍は第3、第4、第6、第8師団、秋山支隊及び3個後備旅団を指揮下におき、日本軍中央左翼を担当して2月27日から砲撃を開始、3月7日まで攻撃を続行したが、ロシア軍の抵抗は激しく前進がままならなかった。ところが7日深夜になり、突如ロシア軍が退却を始めた。日本軍に包囲されると勘違いしたロシア軍首脳部が、中央の部隊に退却命令を出したのである。8日から猛烈に追撃戦を行い、10日に第2軍は第4軍とともに奉天を占領した。しかし、それ以上の攻撃余力がなく、この会戦が事実上日露戦争最後の陸戦となった。

人物像

日露戦争における二元帥六大将
(右から4人目が奥保鞏)
  • 佐幕側であった小倉藩出身であり、しかも長州藩と直接戦火を交えた立場であったにもかかわらず、陸軍内で異例の抜擢を受け続けた。これはひとえに奥自身の指揮統帥能力及び古武士に例えられる謙虚な性格によるものである。後年、薩長・皇族以外の出身者としてはじめて元帥となったが、この時も異論を唱えるものが誰もいなかったと言う。
  • 日露戦争において、軍司令官参謀長人事は薩長出身者がほとんど独占したが、「奥だけは外せまい」というのが陸軍部内の一致した見方であった。4人の軍司令官のうち、作戦参謀の補佐がなくても作戦計画を立案出来るのは奥だけだった。奥は難聴であったが、指揮采配に支障をきたすことはなく、司令部では幕僚と筆談で意見交換を行ったと言われている。
  • 生涯自分の戦功などを語ったことがなく、むしろ功績を消そうとすることもあったらしい。日露戦争終戦後凱旋した際、日の丸を揚げてバンザイを叫ぶ人々の姿を見て、「済まぬ、許してくれ」(多くの将兵を戦死させてしまった自責の念と思われる)と呟いたという逸話が残っている。天性の軍人らしく、政治向きのことには一切興味を示さず、静かな晩年を過ごした(第5師団長時代、桂太郎台湾総督を辞任した際に後任を打診されたが断ったこともある程)。それ故世間からは忘れ去られがちで、死去したときも「まだ生きていたのか」と驚く人が少なくなかったという。
  • 大正天皇の東宮武官長、東宮大夫を務めた。1926年(大正15年)、天皇が最後の時を迎えた際には、東郷、井上両元帥とともに葉山の御用邸に詰めることが許された[4]。1927年(昭和2年)の大喪の礼の際には足元がおぼつかない状態ではあったが、轜車にお供したいとの思いで杖の頼りに徒歩の練習を行い、葬場殿には38度の高熱を押して参列した。こうした心労が影響したか、1928年(昭和3年)秋には脳溢血で卒倒、半身不随となっていた[5]

栄典・授章・授賞

位階
爵位等
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1878年(明治11年)1月31日 勲四等旭日小綬章[6]
1885年(明治18年)4月7日 勲三等旭日中綬章[6][17]
1889年(明治22年)11月25日 大日本帝国憲法発布記念章[18]
1893年(明治26年)5月26日 勲二等瑞宝章[6][19]
1895年(明治28年)8月20日 功三級金鵄勲章[14]
1895年(明治28年)8月20日 旭日重光章[6][20][14]
1895年(明治28年)11月18日 明治二十七八年従軍記章[6][21]
1900年(明治33年)5月31日 勲一等瑞宝章[6][22]
1905年(明治38年)5月30日 旭日大綬章[6][23]
1906年(明治39年)4月1日 功一級金鵄勲章[6]
1906年(明治39年)4月1日 旭日桐花大綬章[6]
1906年(明治39年)4月1日 明治三十七八年従軍記章[6][24]
1915年(大正4年)4月20日 御紋付銀杯[25]
1915年(大正4年)11月7日 金杯一組[6]
1915年(大正4年)11月7日 大正三四年従軍記章[6][26]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章(大正)[27]
1920年(大正9年)11月1日 金杯一組[6][28]
1920年(大正9年)11月1日 大正三年乃至九年戦役従軍記章[6][28]
1925年(大正14年)1月14日 御紋付銀杯[6][29]
1928年(昭和3年)11月10日 大勲位菊花大綬章[6][30]
1928年(昭和3年)11月10日 大礼記念章(昭和)[6]
外国勲章等佩用允許
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1891年(明治24年)5月9日 シャム王国 勲二等タイ王冠勲章[31]
1891年(明治24年)6月1日 オスマン帝国 第二等オスマニエ勲章英語版[32]
1894年(明治27年)10月26日 フランス共和国 レジオンドヌール勲章コマンドール[33]
1903年(明治36年)4月30日 イギリス帝国 印度皇帝陛下戴冠記念章[34][35]
1906年(明治39年)12月29日 フランス共和国 レジオンドヌール勲章グラントフィシエ[36]
1907年(明治40年)7月1日 バイエルン王国 武功剱附大綬章英語版[37]
1907年(明治40年)12月5日 オーストリア=ハンガリー帝国 レオポール第一等勲章英語版[38]
1909年(明治42年)12月6日 大清帝国 第一等第二品御賜双龍宝星中国語版[39][40]
1926年(大正15年)3月26日 ポーランド共和国 ヴィルッチ・ミリタリ勲章英語版コマンドール[41]

親族

脚注

  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  2. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、488頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  3. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)7頁
  4. ^ ご臨終の場に三元帥『大阪毎日新聞』昭和元年12月26日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p362 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  5. ^ 日露戦争の生き残りの元帥、死去『東京朝日新聞』昭和5年7月30日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p36)
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 元帥陸軍大将正二位大勲位功一級伯爵奥保鞏特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11114015000 
  7. ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
  8. ^ 『官報』第2584号「叙任及辞令」1892年2月15日。
  9. ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
  10. ^ 『官報』第5740号「叙任及辞令」1902年8月21日。
  11. ^ 『官報』第7253号「叙任及辞令」1907年8月31日。
  12. ^ 『官報』第635号「叙任及辞令」1914年9月11日。
  13. ^ 『官報』第1068号「叙任及辞令」1930年7月22日。
  14. ^ a b c 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
  15. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  16. ^ 『官報』第8505号「敍任及辞令」1911年10月25日。
  17. ^ 『官報』第562号「賞勲叙任」1885年5月19日。
  18. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  19. ^ 『官報』第2971号「叙任及辞令」1893年5月27日。
  20. ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
  21. ^ 『官報』第3900号・付録「辞令」1896年6月30日。
  22. ^ 『官報』第5072号「叙任及辞令」1900年6月1日。
  23. ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
  24. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  25. ^ 『官報』第813号「宮廷録事 - 恩賜並追賜」1915年4月21日。
  26. ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
  27. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  28. ^ a b 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
  29. ^ 『官報』第3717号「宮廷録事 - 恩賜」1925年1月15日。
  30. ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
  31. ^ 『官報』第2357号、明治24年5月12日。
  32. ^ 『官報』第2378号「叙任及辞令」1891年6月5日。
  33. ^ 陸軍少将奥保鞏外一名外国勲章佩用允許ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112442800 
  34. ^ 『官報』第5975号「叙任及辞令」1903年6月4日。
  35. ^ 陸軍中将男爵奥保鞏印度皇帝陛下戴冠記念章受領及佩用ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112574500 
  36. ^ 『官報』第7056号「叙任及辞令」1907年1月9日。
  37. ^ 陸軍大将男爵長谷川好道外五十二名外国勲章受領及佩用ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112637800 
  38. ^ 参謀総長伯爵奥保鞏外七名外国勲章受領及佩用ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112640200 
  39. ^ 『官報』第7940号、明治42年12月10日。
  40. ^ 陸軍大将伯爵奥保鞏外四十三名外国勲章記章受領及佩用ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112690300 
  41. ^ 『官報』第4077号、大正15年3月30日。

参考文献

関連書籍

  • 秋山香乃『群雲に舞う鷹』日本放送出版協会、2009年
軍職
先代
乃木希典
歩兵第14連隊長
第3代(心得):1877年4月20日 - 1896年10月14日
第4代:1878年12月9日 - 1879年4月7日
次代
茨木惟昭
先代
茨木惟昭(心得)
歩兵第10連隊長
第2代:1879年4月28日 - 1882年2月13日
次代
諏訪好和
先代
黒木為楨
近衛歩兵第2連隊長
第3代:1882年2月13日 - 1885年5月21日
次代
仲木之植
先代
野津道貫
第5師団長
第2代:1894年11月29日 - 1896年10月14日
次代
山口素臣
先代
山地元治
第1師団長
第3代:1896年10月14日 - 1901年4月2日
次代
伏見宮貞愛親王
先代
黒木為楨
近衛師団
第6代:1897年10月27日 - 1898年1月14日
次代
長谷川好道
先代
桂太郎
東京防禦総督
第3代:1898年1月14日 - 1900年4月24日
次代
空席(1901年廃止)
先代
野津道貫
東部都督
第2代:1900年4月25日 - 1904年1月14日
次代
廃止
先代
児玉源太郎
参謀総長
第7代:1906年7月30日 - 1912年1月20日
次代
長谷川好道
爵位・家督
先代
陞爵
伯爵
奥家初代
1907年 - 1930年
次代
奥保夫
先代
叙爵
男爵
奥家初代
1895年 - 1907年
次代
陞爵



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