得利寺の戦い
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得利寺の戦い | |
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熊岳城の占領 | |
戦争:日露戦争 | |
年月日:1904年6月14日 - 6月15日 | |
場所:遼東半島、得利寺駅付近 | |
結果:日本軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
奥保鞏大将 | ゲオルギー・スタケリベルク中将 |
戦力 | |
33,600人 | 41,400人 |
損害 | |
死傷者1,145名 | 死傷者約1万以上名[1] |
得利寺の戦い(とくりじのたたかい)は、日露戦争中の戦いの一つで、旅順に篭っていたロシア軍を援護するために得利寺に陣地を構築中であったシベリア第一軍団とそれを攻撃する日本陸軍第二軍の間で起きた。
日本陸軍第二軍が南山の戦いに勝利したことにより、ロシア軍主力は旅順要塞の二個師団及びロシア太平洋艦隊と切り離されることとなった。再びこれと合流するためスタケリベルク中将率いるシベリア第一軍団が南下し、得利寺付近に陣地の構築を始めた。第二軍は当初陣地を構築しロシア軍の攻勢を迎撃した上で攻勢に出る予定であったが、大本営から敵の陣地構築が完了する前に攻撃するように命令が出たため、得利寺のロシア軍陣地を攻撃することとした。
6月14日に得利寺付近に到着した第二軍は翌15日に火砲による陣地攻撃を開始しそれに対しロシア軍も応戦するが、火砲の数が日本陸軍が200以上擁していたのに対し100足らずであったため、有利な地形を生かすことができなかった。ロシア軍は得利寺駅に火を放って熊岳城に撤退、第二軍の勝利に終わった。
戦闘後追撃を行わなかった第二軍に批判が行われたが、ロシアはこれ以降も旅順の部隊と合流することはなかった。



脚注
- ^ ロシア軍が撤退する際にロシア兵が満洲の匪賊による襲撃を受けたとされ、その数を含めると1万以上になる。クロパトキンもその数で損害を報告している。『日露戦争陸戦の研究』著別宮暖郎P117-119
得利寺の戦い
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「得利寺の戦い」を参照 大連占領後、旅順攻撃を行う第3軍へ第1師団が移り、編成替えにより第3師団、第4師団、第5師団、野戦砲兵第1旅団、騎兵第1旅団を指揮下とし、第2軍は遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍4万と遼陽南方210キロメートルにある得利寺で激突した。2日間にわたる戦闘で、第2軍は側面攻撃を有効に用いて自軍より兵力の大きいロシア軍を撃退した。これにより、旅順要塞の孤立が決定的になった。
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