旅順攻囲戦
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旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん、、リュイシュンこういせん、Siege of Port Arthur, 1904年(明治37年)8月19日 - 1905年(明治38年)1月1日)とは、日露戦争において、ロシア帝国の旅順要塞を、日本軍が攻略し陥落させた戦いである。
注釈
- ^ もしくは徹甲性が優れた大口径要塞砲
- ^ 戦後判明したが、旅順艦隊は黄海海戦によりほぼ無力化されていた。
- ^ 海軍側は第一段階(奇襲)の機密保持を重視して、30日に初めてこの構想を陸軍に知らせた。
- ^ 事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した大本営海軍幕僚もいたと伝えられる。
- ^ 小説や映画、ドラマの影響で第三軍の作戦目的を「旅順艦隊の無力化」と考える人が多いが、それは海軍が単独での旅順艦隊無力化に失敗して陸軍に協力を要請してきた6月以降についた付帯目的であり、第三軍の作戦目的は終始旅順要塞の攻略であった。これは旅順要塞を落とせば、そこに籠もる旅順艦隊も降伏か脱出か自沈かを選ぶしかなく、海軍の要望に応える事ができるが、旅順艦隊壊滅を優先しても、要塞自体は残って抵抗を続ける(第三軍を旅順に釘付けにするだけでクロパトキンのロシア軍の援護になるし、第三軍が北上すればこれを追撃したり、日本軍の後方拠点の大連を攻撃したりできる)ので陸軍自体の目的を達成できないからである。
- ^ (長南 2011b, p. 132)より。他にも同ページには期日が不明ながら軍令部参謀山下源太郎の「(陸軍の)上陸直後、海軍は旅順の陸上攻撃を要求せざるべし」との発言があったといい、なるべく陸軍の援助なく独力にて旅順を陥れんとする野心があった。
- ^ 触雷沈没したのは戦艦「初瀬」「八島」。海軍は戦死者のいなかった「八島」の沈没を秘匿し、「初瀬」1隻の沈没として発表した。
- ^ 当時の先端知識を学んでいた人材、特にドイツで要塞戦を学んでいた井上幾太郎が参謀として加わったことは、旅順難戦の打開に大きく貢献した。
- ^ 海軍陸戦重砲隊中隊長だった永野修身は、海軍ではそれほどなじみのなかった観測を用いる間接射撃の実現に貢献した。
- ^ 戦艦の副砲なので、戦艦へ命中しても与える被害は軽微だった。
- ^ 一部損傷艦船はドイツの租借地であった山東半島に逃げ込んだが、同盟国であったドイツはこれら艦船の武装解除を行った
- ^ 8月に、戦艦・巡洋艦などの大型艦1艦ごとに1個中隊を編成し、要塞の地区ごとの陸軍部隊の指揮下に派遣した。陸上戦闘での消耗は激しく、その後も増援が繰り返され、人員の面でも艦船の行動能力は次第に損なわれていった。
- ^ 撤去決定は明治37年8月5日。当初は鎮海湾と対馬へ移設することを予定していた (原 2002, p. 530)。
- ^ 陥落後に行われた着底ロシア艦艇への命中弾のの効果を調べる調査を陸軍省軍務局砲兵課石光真臣らが実施。命中した28センチ榴弾砲の砲弾は経年劣化により装填火薬や信管に不良があり不発が多かった。また鋳鉄製砲弾は鋼鉄艦砲撃には強度不足で、艦底まで突き抜けているものは皆無で、調査報告を受けて陸軍省技術審査部長有坂成章は砲弾の全面変更を指示している。また海軍側の調査でも多くの艦はキングストン弁を開いており、自沈処理がなされていたと報告されている
- ^ 要塞には降伏時、兵員1万6千人、砲弾8万発、銃弾200万発が残っていたとされる。スミノルフ中将、ゴルバトフスキー少将ら首脳陣の多くは徹底抗戦を主張したが、ステッセリはほぼ独断で降服を決定した。そのため、戦後厳しく糾弾され(大江志乃夫「世界史としての日露戦争」ほか)軍法会議で死刑を宣告された。
- ^ 11月14日、御前会議において203高地奪取の御裁可を得た旨を満洲軍に対し伝達。11月19日乃木宛親書で203高地占領を要請。11月22日勅語を乃木に対し伝達。
- ^ 大正14年陸軍大学校調整、全十二巻二十一章におよぶ大著である。 表題には「日露戦史講義摘要録」と書かれている。
- ^ 文芸春秋2010年12月臨時増刊号にて軍事史研究家別所芳幸が紹介した。
- ^ 現場では第1回総攻撃後、自傷兵(自らを傷つけて戦線を退こうとする兵)が多発し、第2回総攻撃前の9月25日付けで自傷兵を後方へ送還することを一事見合わせるよう通達が出ている。(鶴田禎次郎『日露戦役従軍日誌』)
- ^ 大本営は「先ず旅順を攻略し、雨期前には鳳凰城の線に進出する」というようなことを述べており、旅順要塞の防御力を実際より軽視しており、攻城準備を省略して、西方から奇襲して陥落させるという方針であった。一方で乃木は大本営参謀に対し「攻城計画の順序を省略し、奇策を用い又は力攻を勉むる如きは全局の利害に鑑み、責任を以て決行するを得ず」と述べ、攻城準備を行った上で第1回総攻撃を行ったが、おびただしい死傷者を出す結果となった。(沼田 2004、谷 2004)
- ^ 奈良武次少佐(当時は攻城砲兵司令部所属)の回想(歴史群像 2011, p. 70)。
- ^ 「長岡外史関係文書 回顧録編(長岡外史文書研究会)」によれば、大正12〜15年頃に執筆作業をしたと推定されている
- ^ 「長岡外史関係文書 回顧録編(長岡外史文書研究会)」より。『機密日露戦史[112]』もこの長岡談話を基に記述されている。
出典
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