ロシア太平洋艦隊司令長官への就任
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「ステパン・マカロフ」の記事における「ロシア太平洋艦隊司令長官への就任」の解説
1904年、日露戦争が起こる。第四次旅順攻撃で日本海軍の奇襲を許しその責任を追及されて解任されたオスカル・スタルク司令長官の後任として、マカロフは3月8日にロシア太平洋艦隊司令長官に就任した。攻撃精神に富むとともに計画性・最先端技術への理解が深くロシア海軍屈指の名将との評価も高いマカロフの着任は、その相手となる日本の連合艦隊にとっては非常な脅威であり、太平洋艦隊の士気も大いに上がった。 旅順着任直後に日本海軍による第四次旅順攻撃を受けるが、マカロフは自軍の水雷艇ステレグーシチイが猛攻を受けていると知り、自ら巡洋艦ノーウィックに座乗して出撃した。結局ステレグーシチイは救えなかったが、このようなマカロフの常に陣頭指揮を行う行動や飾らない人柄は部下将兵に好意的に受け入れられ、「マカロフ爺さん」と呼ばれ親しまれるようになっていく。 マカロフは士気が低下していた将兵の意識改善や体制改革に取り組み、常に部下の士官や下士官と会話を交わしつつ、ロシア太平洋艦隊の現状掌握に努めた。また損害を受けない範囲で可能な限り自艦隊を港外に出して練度の向上を図り、日本艦隊との交戦も辞さなかった。
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