宮崎県再置とは? わかりやすく解説

宮崎県再置

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:33 UTC 版)

宮崎県」の記事における「宮崎県再置」の解説

1883年5月9日 - 飫肥藩士の川越進 らによる分県運動の結果日向国のうち志布志郷・松山郷・大崎郷 を除いた地域をもって、国より再置県が認められ分県が成立した(宮崎県再置)。なお、同日富山県佐賀県も再置されている(「明治16年太政官布告第15号 富山佐賀宮崎三縣設置参照)。 分県運動西南戦争の旧薩摩藩士族側の敗北により、鹿児島県及び宮崎支庁での旧薩摩藩士族影響少なくなった時点で「鹿児島県所属のままでは、日向国発展望まれない」との認識背景興り1880年徳島県高知県から分離したことで活発になる。旧薩摩藩領であり、当時日向国最大の都市であった都城が「表立って賛成できないが、運動反対しない」との立場を採ったことは分県運動への大きな弾みとなった1882年に宮崎県再置の案が鹿児島県会に提出されたがこのときは否決川越進県議会議長となった後、1883年3月県議会再度案は提出され可決し5月9日太政官達示により宮崎県再置が成立した江戸時代日向国複数の藩(飫肥藩延岡藩高鍋藩佐土原藩薩摩藩)が分立していた。この為住民の「日向国としての意識はやや希薄になっており、宮崎県再置の為の鹿児島県からの分県運動は、日向国民(宮崎県民)として一体となって行動した初めての出来事でもあった。当時日向薩摩よりも人口密度低く県庁が遠い為に何かにつけ不便であった。分県運動最高潮となった1881年は、金融逼迫し自由民権運動盛んだった時期で、鹿児島県による宮崎支庁への支出徴収される地方税よりも少ないという悲憤もあった。一方薩摩側は当初分離反対意向示していたが、分離した方が財政有利になるとして、分離受け入れることになった

※この「宮崎県再置」の解説は、「宮崎県」の解説の一部です。
「宮崎県再置」を含む「宮崎県」の記事については、「宮崎県」の概要を参照ください。

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