岩切門二とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 岩切門二の意味・解説 

岩切門二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/13 07:22 UTC 版)

岩切門二
いわきり もんじ
生年月日 1860年3月
出生地 日本 日向国
(現・宮崎県
没年月日 1896年11月24日
出身校 慶應義塾卒業
所属政党 (日州同志会→)
(日州大同倶楽部→)
立憲自由党・自由党
選挙区 宮崎県第1選挙区
当選回数 1回
在任期間 1894年3月1日 - 1894年6月2日
テンプレートを表示

岩切 門二(いわきり もんじ、万延元年(1860年3月 - 明治29年(1896年11月24日)は、日本政治家ジャーナリスト[1]川越進らと宮崎県再置運動で活躍した[1]

概要

柏原村(現宮崎市大字柏原)出身[1]慶應義塾で法制を学ぶ[1]

1873年明治6年)1月に誕生した宮崎県は、1876年(明治9年)8月に鹿児島県に合併されてしまう。この鹿児島県から分離しようという分県運動に門二は参加し、1883年(明治16年)5月の宮崎県再置に貢献した。

運動中には弾劾演説で、鹿児島県令渡辺千秋を罵倒して検挙されたこともあるという。分県の議決をした同年2月の鹿児島県通常県会では、議長である川越進のもと書記長となった。

再置県後の門二の活動は、新聞の刊行と政党の結成へと向かう。1888年(明治21年)2月15日宮崎県初の新聞『宮崎新報』を発刊。門二はその主筆となった。一方、1889年(明治22年)3月の旧九州改進党の影響を受けた日州同志会の結成に参加。これが宮崎県の政党形成の大きなきっかけとなった。

1890年(明治23年)7月、日州大同倶楽部は解散し、倶楽部員は随意立憲自由党に加入することになり、門二もこれに参加している。1894年(明治27年)、第3回衆議院議員総選挙において宮崎1区から立候補し当選し、衆議院議員となったが、1896年(明治29年)に病没。享年37であった。

脚注

  1. ^ a b c d 宮崎の父 川越進”. 宮崎県. p. 26. 2025年2月1日閲覧。

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「岩切門二」の関連用語

岩切門二のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



岩切門二のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの岩切門二 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS