宮崎県初の集団離村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 15:13 UTC 版)
「寒川 (西都市)」の記事における「宮崎県初の集団離村」の解説
1960年代以降、基幹産業であった林業・農業は壊滅的状況に陥り、1978年には寒川小・中学校が閉校した。自家用車を持つのは6世帯中2世帯のみで、日常の買い物や通院にも支障をきたしていた。その上、2キロメートル先にある水源や、集落と県道を結ぶ道路の管理もままならないなど、集落を維持することが著しく困難となった。 1986年11月24日に、寒川集落の住民5人が市側に集団移転の陳情書を提出した。これを受けて市側は寒川の麓にあたる「福王寺」地区を移転先に決定し、市営住宅を建設した。そして1989年3月に最後の住民6世帯13人が集団離村し、寒川の400年に及ぶ歴史に幕を下ろした。市側は移転の条件として、「かまどの破壊、畳を上げること」、すなわち、再び居住することが出来ない状態にすることを住民に求めたという。
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