廃藩置県後の留守政府の禄制改革議論
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1871年(明治4年)4月には廃藩置県が実行されて幕藩体制は解消され、全国の歳入および士族は政府が掌握する。この結果、明治政府が支給する家禄および賞典禄の合計は、歳入の37%を占めることになった。旧藩主である知藩事は東京に住むことが強制されたが、藩収入の一割が旧藩主家の家禄とされ、かつ藩の債務および旧家臣への俸禄支給義務から解放されたため、旧藩主階級の抵抗は極めて小さく、反抗したのは島津久光くらいで、それも一日中花火を上げることぐらいしかできなかった。10月には幕末に諸外国と結ばれた不平等条約の改正(条約改正)などを目的とした岩倉使節団が派遣され、留守政府において禄制改革は行われた。大蔵卿大久保利通に代わり次官大輔の井上馨が担当し、地租改正と平行して井上は急進的な改革を提言する。井上の改革案は大蔵少輔吉田清成を派遣して使節団に参加している大久保や工部省大輔の伊藤博文に報告を行うが、急進的な改革案に対し岩倉具視や木戸孝允らは難色を示し、審議は打ち切られる。一方で、留守政府においては1871年には禄高人別帳が作成されるなど、多元的であった家禄の支給体系の一律化が進む。 禄制改革をはじめとする留守政府の政策に対しては反対意見も存在し、農民一揆なども勃発していた。また、留守政府では旧薩摩藩士で参議の西郷隆盛らが朝鮮出兵を巡る征韓論で紛糾しており、薩摩士族の暴発を予防策として家禄制度を維持しての士族階級の懐柔を行うべきであるとする意見も存在していた。1873年(明治6年)1月には徴兵制の施行により士族階級の軍事職独占が崩れ、家禄支給の根拠が消失する。
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