福山藩による流路改修
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 07:02 UTC 版)
中津原(河口から約14から15km付近)。勝成による治水普請。右下の川が高屋川で、この右上方向に神辺がある。 どんどん池(蓮池)。福山上水の沈殿池として用いられた。 詳細は「福山 (城下町)」を参照 転機となったのは、1619年(元和5年)に譜代大名水野勝成が備後福山藩主として入封したことである。西国の有力外様大名に対する押さえとして福山城が築城され、周辺開発を積極的に行い領内の経営に努めた。 その中で河川改修が行われた。河口部に広がる干潟を干拓し農地に変え、福山城下への氾濫を防ぐため城から川を遠ざけるよう流れを西寄りに改修する工事が行われた。その中で有名なものが、中津原の改修である。府中から蛇行していた川筋を東へまっすぐ流し、中津原で南へ直角に曲げ、その曲がり角に二重堤防を築き、この地点で意図的に河川を氾濫させ城下を洪水から守る普請を行った。勝成はその他、日本三大上水道である福山上水や服部大池を普請している。 このころの芦田川は現在の福山市神島町から「鷹取川」と芦田川に分岐し、鷹取川は市内側・芦田川は山側を流れ、現在の水呑町付近で合流し河口へと流れていた。ちなみにこの2つの川に挟まれた中洲にあった草戸千軒町は、1673年(寛文13年)の大規模洪水により水没している。 江戸時代、勝成以降は大規模な河川改修は行われなかった。この間、福山藩は船運の航路確保のため積極的に堆積土砂対策に務めた。具体的には、流域の村に頻繁な浚渫を命じ、出水8尺5寸(約2.58 m)時点で役所に報告され藩による防災活動を開始、1丈(約3.03 m)時点で城の西側にあたる本庄に約200人の人夫が集まる手はずとなっていた。 明治時代にはいり廃藩置県以降、船運確保のための土砂対策が行われなくなり、堆積土砂や老朽化した堤防が原因で80ミリメートル以上の降雨で簡単に洪水してしまい、これが毎年のように続いた。
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