福山藩による改修
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 21:44 UTC 版)
「高屋川 (芦田川水系)」の記事における「福山藩による改修」の解説
元和5年(1619年)、備後福山藩が興り譜代大名水野勝成が入封する。幕府は福山藩を西国の有力外様大名に対する押さえとして置いたことから、福山藩は大規模な築城が許可され、神辺城を廃し新たに福山城を築城した。 福山藩は福山城下を洪水から守るため積極的な治水工事を行った。その代表的なものが神辺平野での芦田川流路改修になる。それに伴い高屋川と芦田川の合流地点は片山の東側からより南に移された。現在の神辺平野内の各支流の流路はこの福山藩による改修で決まったものと言われている。更に井原に堤防を築き高屋川上流部の山野川を小田川(高梁川水系)に付け替えた。一方で、福山城の堀と福山上水への水は芦田川と高屋川の合流地点から取水した。 現在の流域産業の一つである繊維業が始まったのも江戸時代初期のことになる。備後側では福山藩水野氏の奨励によって盛んになったと言われている。備中高屋宿では、藍染め厚地の「備中木綿」が参勤交代で往来する人々に評判となり、備中井原の特産物となった。近代に入り、明治時代から昭和30年代にかけて有数の産地となり、流域には染め物工場が立ち並び、染料が河面を青く染めたという。
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