小野組の破綻
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1871年(明治4年)の廃藩置県以後、三井・島田・小野三家の為替方は府県方と称し、三府七二県に支店。出張所を置き公金の収支に従事していた。 小野組は為替方であることによって多額の金を無金利で運用して、生糸貿易を手がけ、また1871年には築地生糸所を創立、その後も前橋製糸場をはじめ、長野県各地、福島県二本松などに製糸場を経営し、また、釜石、院内、阿仁など東北各地の鉱山経営に着手した。 生糸取引は古河市兵衛が、為替店は小野善衛門(西村勘八)が統括していたが、1872年(明治5年)、渋沢栄一の仲介によって、三井組と共同で「三井小野組合銀行」(第一国立銀行の前身、現在のみずほ銀行)を設立するが、三井組は独自に金融機関(三井銀行の前身、現在の三井住友銀行ほか)を設立、三井組は規模を拡大した。 小野組は、1873年(明治6年)には、全国に支店四十余、大阪府の外二十八県と為替契約を結び、三井組を凌駕していたが、1874年(明治7年)になって、政府の為替方に対する方針は担保額の引き上げなどの一方的な金融政策の急変によって、小野組は御用御免を願い出て、資金全部を大蔵省に提出して精算をし、1877年6月処分を完了した。岩手県で創県以来、政府の公認を得て、年貢金及び官金の為替方を東京・田所町(日本橋堀留町のあたり)の小野善助の出店である盛岡呉服町の小野善十郎に取扱わしていた。1874年(明治7年)11月20日小野善助は県御用達免除を出願、同27日には盛岡の小野善十郎も同様出願して、県為替方を閉店した。11月22日大蔵省は小野組の官金委託を第一国立銀行に切換え、同組の財産を没収した。 1884年9月、小野組の権利義務を移して小野商会を創立し、1897年頃まで営業を続けていたが、その後、解散した。
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