小野組と盛岡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 08:11 UTC 版)
盛岡に定住し、質屋、酒、味噌・醤油の販売を行い、盛岡・八戸藩の御用商人として御用金を引受け、銭札の通用、尾去沢銅山などにも関与した。盛岡の小野組は、現在の盛岡市肴町(旧呉服町)、「岩手酒類卸株式会社」の地にあった。現在も当時の煉瓦塀の一部が残されている。また、みずほ銀行盛岡支店に隣接して、当時の蔵が一棟のみ残されている。 小野組の破産後、政府為替方として「国立第一銀行盛岡支店」が開かれると、支店長には渋沢栄一の従兄で義兄である尾高惇忠が配されたが、この銀行も破綻した。代わって同じく渋沢が設立に関与した仙台の「国立第七十七銀行(現七十七銀行)」を盛岡に斡旋、岩手県の公金が隣県の宮城県を本拠にする銀行へ流れることに反対して、地元有力者によって「盛岡銀行」が設立された。 なお、盛岡小野組が輩出した人物は次の通り。 小野慶蔵 - 小野組の系譜を引き、1907年(明治40年)第九十銀行取締役の任にありながら、ほかの重役陣と経営方針があわず、全ての持株を時価で役員に譲渡して(旧)岩手銀行を設立した(現・岩手銀行とは同名異社である)。 古河市兵衛 - 豆腐行商に始まり盛岡小野組に奉公し、破産後は古河鉱業を興した。 葛西重雄 - 古河市兵衛の下で足尾銅山ほか鉱山事業に参画。のちに岩手銀行頭取。東京駅を設計した葛西萬司の義父。 小野清一郎 - 刑法学者
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