輩出した人物
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同家に属する人物は全て「prince」に相当する「公(Князь / knyaz)」ないし「公女(княжна / knyaginya)」の称号を以て称されるが、ここでは略する。 マリヤ・ウラジーミロヴナ・ドルゴルーコヴァ(1625年没)…ミハイル・ロマノフの最初の皇妃(ツァリーツァ) ヴァシーリー・ウラジーミロヴィチ・ドルゴルーコフ(1667年‐1746年)…元帥 ヴァシーリー・ルキーチ・ドルゴルーコフ(1672年‐1739年)…外交官・大臣 エカチェリーナ・アレクセーエヴナ・ドルゴルーコヴァ(1712年‐1747年)…ピョートル2世の婚約者 エレナ・パヴロヴナ・ドルゴルーコヴァ(1790年‐1860年)…博物学者。ブラヴァツキー夫人とセルゲイ・ウィッテの祖母 ドミトリー・イヴァノヴィチ・ドルゴルーコフ(1797年‐1867年)…外交官 ヴァシーリー・アンドレエヴィチ・ドルゴルーコフ(1804年‐1868年)…陸軍大臣 ピョートル・ウラジーミロヴィチ・ドルゴルーコフ(1816年‐1868年)…歴史家 ウラジーミル・ドルゴルーコフ…1865年から1891年までモスクワ市長 エカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァ(1847年‐1922年)…アレクサンドル2世の貴賤結婚による再婚相手 パーヴェル・ドミトリエヴィチ・ドルゴルーコフ(1866年‐1927年)…自由主義者・政治家
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輩出した人物
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コンスタンティン・カンテミール(Constantin Cantemir,1693年没)…1685年から1693年までモルダヴィア公を務め、宗主国オスマン帝国がオーストリア・ロシアなど周辺列強と戦争状態にある困難な時代に、モルダヴィアを平穏に保つよう務めた優れた統治者であった。 アンティオフ・カンテミール(Antioh Cantemir,1726年没)…コンスタンティンの子で、父を継いでモルダヴィア公を二度務めた(1695年 - 1700年、1705年 - 1707年)。 ディミトリエ・カンテミール(Dimitrie Cantemir,1673年 - 1723年)…アンティオフの弟で、ラテン語で最初の本格的なオスマン帝国の歴史書を著すなど多くの著作を残した文人として知られる。彼は1710年からモルダヴィア公を務めたが、翌1711年にモルダヴィアに侵攻したロシアのピョートル1世に降伏したため、戦後ロシアに亡命し、ロシア帝国で公爵(クニャージ)の爵位を与えられた。 アンティオフ・ドミトリエヴィチ・カンテミール(ロシア語表記:Антиох Дмитриевич Кантемир / Antiokh Dmitrievich Kantemir,1708年 - 1744年)…ディミトリエの子。ロシア語で詩作した詩人で、民衆の言葉を使い叙情的な詩を作ったので、近代ロシア文学の黎明期を代表する作家のひとりとして知られる。1731年にロシアの駐イギリス大使、註フランス大使を歴任している間に父の著作『オスマン帝国の勃興と衰退』の英訳・仏訳を出版し、これを西欧に広く紹介した。カンテミール公爵家は19世紀に後継者が絶え、断絶した。
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輩出した人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/12/08 14:38 UTC 版)
同家に属する人物は全て「prince」に相当する「公(Князь / knyaz)」ないし「公女(княжна / knyaginya)」の称号を以て称されるが、ここでは略する。 エレナ・ミハイロヴナ・レプニナ…夫のヴァシーリー・シュイスキーが1606年にツァーリに選出されたため、皇妃(ツァリーツァ)となった。しかし翌1607年、夫は彼女と離婚して若い女性と再婚した。 ボリス・アレクサンドロヴィチ・レプニン…1639年以降、大貴族として多くの官房(プリカース)の長官を務めた。さらにアストラハン(1643年-1646年)とスモレンスク(1656年-1659年)で都市長官を務め、ツァーリの不在時には頻繁に貴族会議の議長役を代行していた。1670年5月17日にモスクワで没した。 アニキータ・イヴァノヴィチ・レプニン(1668年‐1726年)…ボリスの孫。大北方戦争に従軍した将軍で、陸軍元帥および*国防長官まで上りつめた。 ヴァシーリー・アニキートノヴィチ・レプニン(1696年‐1748年)…アニキータの子。ピョートル3世の傅育官で陸軍士官学校校長。オーストリア継承戦争の軍総司令官を務め、アーヘンの和約成立に尽力したが、その帰途で没した。 ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・レプニン(1734年‐1801年)…ヴァシーリーの子、おそらく一族中最も有名な人物。大使としてロシア帝国によるポーランドへの内政干渉を強化させ、対トルコ戦争でも活躍した。嫡出には3人の娘しかいなかったため、アレクサンドル1世の許しを得て孫のニコライ・ヴォルコンスキー公にレプニンの姓と紋章を相続させた。このため子孫はレプニン=ヴォルコンスキー公家を名乗っている。庶子に詩人イヴァン・プーニンがいる。
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輩出した人物
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「スヴャトポルク=ミルスキー家」の記事における「輩出した人物」の解説
トーマス・ボグミール・ヤン・スヴャトポルク=ミルスキー(1788年-1868年)…ポーランド議会への駐露大使。 ドミトリー・イヴァノヴィチ・スヴャトポルク=ミルスキー(en,1825年 - 1899年)… トーマスの子。ロシアの軍人(陸軍大将)、政治家。カフカス戦争、露土戦争の英雄。ロシア帝国国家評議会議員。 ニコライ・イヴァノヴィチ・スヴャトポルク=ミルスキー(en,1833年 - 1898年)…ドミトリー・イヴァノヴィチの弟。カフカス戦争および露土戦争の英雄。ドン・コサック軍のアタマン、ロシア帝国国家評議会議員。 ピョートル・ドミトリエヴィチ・スヴャトポルク=ミルスキー (1857年-1914年)…ドミトリー・イヴァノヴィチの息子。ペンザ県知事、ヴィルナ県知事およびグリヴナ県知事を経て、ロシア帝国内務大臣となり自由主義的改革に取り組む。 ドミトリー・スヴャトポルク=ミルスキー(en,1890年-1939年)…ピョートル・ドミトリエヴィチの息子。「D.S.ミルスキー」の筆名で知られる文学史家、随筆家。
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