森田節斎とは? わかりやすく解説

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森田節斎


森田節斎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/07 06:32 UTC 版)

森田 節斎
生年 1811年12月22日
生地 大和国(現・奈良県
没年 (1868-09-12) 1868年9月12日(56歳没)
没地 紀伊国(現・和歌山県
思想 尊王攘夷
活動 倒幕
記念碑 和歌山県紀の川市荒見
影響を受けたもの 森田文庵、頼山陽
影響を与えたもの 吉田寅次郎(吉田松陰
磯城郡田原本町極楽寺霊園
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森田 節斎(もりた せっさい、1811年12月22日文化8年11月7日[1] - 1868年9月12日慶応4年7月26日〉)は、幕末医師思想家儒学者教育家。名は益、字は謙蔵[2]。晩年には称は山外節翁、号は五城、愚庵とした。

概要

幼少期は、兄と父親が急逝、その後は学問に専念したが、帯が解けても結ぼうとはせず、素足で外を出歩いたりする事が由来で、住民から「森児の三一」とあだ名がついていたが、後に頼山陽も激賞するほどの学才を発揮。また、昌平坂学問所で学んだ際には安井息軒塩谷宕陰野田笛浦儒学者達と知り合うまでになっていた。その後は、自身の弟子や志士たちが次々と投獄されたため、志士たちを糾合して倒幕運動を起こそうとしたが、幕府に疑われ、一度藤江村に身を潜める。しかし、その後は倉敷私塾「簡塾」を主宰し、多くの志士たちを薫陶したが、幕府の詮索は一層強まるばかりであった。そのため、紀伊国那賀郡に隠棲した。死後、記念碑が建てられ、現在は奈良県文化財となっている。近代化を目指すために、少なからずの影響を与えたうちの一人である。

生涯

幼少期

森田節斎宅跡(現在「森田節斎宅跡」と言う名で、奈良県文化財として残されている。)

1811年(文化8年)に大和国(現奈良県)の五条辰巳町の医者・森田文庵の三男として生まれる。兄が二人おり、後妻が入り、弟二人が生まれた。しかし長男が早く死去、その後は四人兄弟として育てられた。11歳のころに疫痢により父親が死去[1]、その後は母親の専念で学問を学ばせた。その後、母親(森田千代)は五条代官所から褒賞された[3]。四人とも学問に専念し、節斎を除く三人は皆慧敏であったが、節斎は、帯が解けても結ぼうとはせず、素足で外を出歩いたり、友人と遊ぼうともしなかったことが由来し、住民からは「森児の三一」と呼ばれていた[3]。森児とは森田家の子供と言う意味で三一の三は、節斎を除く三人の子供、一は節斎の意味である。その後、医術のためには兄と共に猪飼敬所のもとで学び、やがて頼山陽のもとで学ぶようになった。その後は頼山陽を尊敬しながら頼山陽の塾に通い、頼山陽も激賞するほどの才能を発揮した。その後は江戸に入り昌平坂学問所へ行く。古賀侗庵から学んだとされている。また、3年後には多くの学業に進んだ。哲学者である安井息軒儒学者である塩谷宕陰漢学者である野田笛浦と交わった[3]

学問

1833年天保4年)父の13回忌のため昌平坂学問所を去って帰郷[2]1837年(天保8年)に母親が死去[4]。1844年(弘化元年)京都に出て弟子を取り学問を開いた。このころから、激しい文才から「弁難攻撃余力を残さず」とも言われていた[3]。また、幕末に行われた尊皇攘夷論の総帥的な地位を務め。その弁論から、「言簡なりと雖も、辛刻骨を貫き、諷刺腸をえぐる」と評られるなど、「言論、文章とも一世を震い、名声海内に鳴る」などとの記録も残っている[3]。また、節斎と関わった幕末志士には梅田雲浜頼三樹三郎宮部鼎蔵がいる。また、門下生には、吉田松陰那珂通高、乾十郎、久坂玄瑞安元杜預蔵、原田亀太郎、万才庄助らがいた[3]。しかし、門下生である松陰が自首。そのため獄中にいた松陰だが、しばしば詩などを送っていた[3]

その後、勤王の志士が相次いで投獄されるため、梅田雲浜春日潜庵と協力し、幕府を密かに騙し、投獄された志士を次々と集めた。十津川郷士と連絡しながら、倒幕運動を起こそうとしていた。しかし、幕府にこのことが疑われ、身の危険が迫ったため、一度、備後国藤江村に身を潜める[3]。藤江村に身を潜めること数年、1860年万延元年)に姫路藩に招かれ、しばらくして備中広島某などにも招かれた[3]。その後は倉敷で私塾を創立し、学問を講じた。門下生は約270人に至り、倉敷地方では尊皇運動の発祥の地にもなった[3]

晩年

1867年(慶応3年)には、幕府の捜索がますます高まってきたため、また、弟子達を故郷へ帰らせるが、幕府の捜索が高まるばかりであった。そのため、紀伊国那賀郡に隠れた[3]。1868年(慶応4年)に痢病を患い、病没。戒名は「竹奧院山外節斎居士」[3]。現在、森田節斎の記念碑が、節斎の故郷に祀られている。県の文化財でもある。死後の1908年(明治41年)贈従四位が贈られた。

関係者

儒学者

志士

弟子

  • 森田司馬太郎、森田阿孟

経歴

人物

節斎は、父親譲りで、貧しい人々からは決して医療費をとらなかったと言われる。

妻の森田無絃は、幼児期に天然痘を患い、顔にあばたが残った。そのため結婚を諦め、藤沢東畡の元で学問を納めていた。東畡の勧めにより節斎と結婚した[17]

倒幕運動では、近代化を目指した明治維新に少なからずの影響も与えた人物である。

発言

  • 才能とは天が人間に貸しているものだ
  • 人間は磨いてもって人の世のために使うべきだ
才能とは 天が人間に貸しているものだ
人間は磨いてもって人の世のために使うべきだ

墓所

森田節斎墓(左)森田阿孟墓(右)

節斎の父である森田文庵の墓には、吉田松陰の名が刻まれている。また、ゆかりの地でもある。

簡塾のあった倉敷市の教善寺には、娘である森田阿孟の墓があり、節斎の死後に招魂碑が建てられている。

脚注

  1. ^ a b c 『森田節斎』p.310
  2. ^ a b c d 『頼山陽の人と思想』p.509
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 森田 節齋”. 好古斎. 2025年5月7日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h 『頼山陽の人と思想』p.510
  5. ^ 『森田節斎』p.312
  6. ^ 『頼山陽の人と思想』pp.510-511
  7. ^ a b c d e f 『頼山陽の人と思想』p.511
  8. ^ 『頼山陽の人と思想』pp.512-513
  9. ^ 『森田節斎』p.324
  10. ^ a b c 『頼山陽の人と思想』p.513
  11. ^ 『森田節斎』pp.326-327
  12. ^ a b 『頼山陽の人と思想』p.514
  13. ^ 『森田節斎』p.328
  14. ^ a b 『頼山陽の人と思想』p.516
  15. ^ 『森田節斎』p.333
  16. ^ 『森田節斎』p.334
  17. ^ 吉見良三「森田節斎「美人自画賛」の主人公」(『霊山歴史館紀要』第9号、霊山顕彰会、1996年4月、p.73。)

参考文献

  • 木崎好尚『頼山陽の人と思想』今日の問題社、1943年。
  • 新城軍平『森田節斎』五条市、1973年。

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