猪飼敬所とは? わかりやすく解説

いがい‐けいしょ〔ゐがひ‐〕【猪飼敬所】

読み方:いがいけいしょ

[1761〜1845]江戸後期儒学者京都の人。名は彦博、字(あざな)は希文。経学主とする折衷学派属した。著「論孟考文」「孟子考文」など。


猪飼敬所

読み方いかい けいしょ

江戸後期儒者近江生。名は彦博、幼名安次郎、字は敬文。京都儒学代表者岩垣竜渓の門に入り、のち門人教育にあたる。弘化2年(1845)歿、85才。

猪飼敬所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/15 00:42 UTC 版)

猪飼 敬所(いかい(いがい) けいしょ、宝暦11年3月22日1761年4月26日) - 弘化2年11月10日1845年12月8日))は、日本江戸時代後期の折衷学派儒学者。名は彦博(よしひろ)、は文卿、希文。近江国出身。京都儒学の代表者といわれる[1]

人物

経書史書など、各種書物に詳しく、大和の儒学者谷三山の質問数十条にも答えたように、たいへん博識であった。中でも経書、特に三礼に精通していた[2]。著作に「論孟考文」「管子補正」などがある。

初めは石田梅岩心学に傾倒して手島堵庵に師事するが、天明3年(1783年)に儒学を志して巌垣竜渓の門下に入る。京都、淡路洲本、但馬豊岡など各地で講説。天保2年(1831年伊勢津藩藤堂高猷に招かれて津藩儒となる。天保3年(1832年)9月8日、伊勢のへ行くに際し挨拶のため頼山陽を訪れたが、山陽が瀕死の床にあるとは知らず、歴史を論じて北朝正統論を強く主張し、「今の朝廷北朝の系統であるから、君は北朝の臣ではないか」といって山陽の怒りを買った。しかし、敬所は自説を曲げなかった。山陽は、9日後の9月17日にこの論争について篠崎小竹に語り、その6日後に没した。

天保9年(1838年)、藩主や門人の願いにより、京都から津に移住。晩年は両目を失明したが、それでも藩主に対し講義を続けた[2]。弘化2年(1845年)11月10日死去、享年85。

大正13年(1924年)、従五位を追贈された[3]

現在、津市立西橋内中学校の北隣にある龍津寺の門前に、猪飼敬所先生墓所と刻んだ石柱が建っている。

著書

  • 『猪飼敬所遺著』
    • 『敗鼓録』
    • 『神山元策四礼答』
    • 『儀礼礼節改正図』
    • 『文公家礼儀節正誤』
    • 『名典二詮考』
    • 『北辰考』
    • 『雑抄』
    • 『乙卯雑抄』
    • 『管豹録』
    • 『逸史糾繆』
    • 『三餘漫筆』
    • 春秋左伝補註』
    • 『崇倹録』
  • 『論孟考文』
  • 『管子補正』
  • 荀子』(共著)
  • 『論語集説』
  • 『葛原詩話標記』
  • 『讀禮肆考』
    • 『深衣考』
    • 『凶服考』
    • 『寢廟堂室考』
    • 『周量考』

関連項目

  • 谷三山
  • 川村貞蔵

脚注

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 79頁。
  2. ^ a b 猪飼敬所『葛原詩話標記』
  3. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.52



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