篠崎小竹とは? わかりやすく解説

しのざき‐しょうちく〔‐セウチク〕【篠崎小竹】

読み方:しのざきしょうちく

[1781〜1851]江戸後期儒学者大坂の人。名は弼(ひつ)。篠崎三島師事同家養子となり、のち、江戸で古賀精里学んだ。著「小竹詩鈔」など。


しのざきしょうちく 【篠崎小竹】

江戸後期儒学者大坂生まれ本姓加藤、名は弼。別号は畏堂・南豊など。篠崎三島学び養子となり、江戸出て昌平黌古賀精里師事。帰坂後、三島梅花書屋継ぎ、町儒者として多く門人育てた。著『古文標註』他。(一七八一一八五一

篠崎小竹

読み方しのざき しょうちく

江戸後期儒者大坂生。名は弼、別号に畏堂・退庵等。篠崎三島入門しその養子となり、のち尾藤二洲古賀精里に学ぶ。仕官好まず家塾継ぎ諸生指導頼山陽田能村竹田ら京坂の多く文人交渉があった。嘉永4年(1851)歿、71才。

篠崎小竹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/13 22:46 UTC 版)

篠崎 小竹(しのざき しょうちく、天明元年4月14日1781年5月7日〉 - 嘉永4年5月8日1851年6月7日〉)は、江戸時代後期の日本儒学者書家

本姓は加藤氏。幼名は金吾、は弼(たすく)、は承弼、小竹はで別号に畏堂・南豊・聶江・退庵・些翁などがある。通称は長左衛門。

生涯

天明元年(1781年) 、豊後国医師・加藤周貞の次男として大坂に生まれる。

9歳で篠崎三島の私塾梅花社に入門し、古文辞学を受ける。三島に後継ぎがなく13歳の時に望まれて養子となる。しかし、江戸幕府による寛政の改革が進む中、頼山陽に感化されると養家を抜け出し、江戸に遊学。尾藤二洲に学び古賀精里の門をくぐって朱子学者に転向する。その後、養父・三島に詫びて和解がなり、梅花社を継いでいる。三島にも勝って塾は栄え、多くの門弟を育てた。

詩・書に優れ、書籍を刊行しようとする者のほとんどが小竹に序・題・跋などの文章を求めるほど人気があった。篆刻も得意とし稲毛屋山の『江霞印影』にその印が掲載されている。温厚で社交好きな性格だったこともあり、関西学芸界の名士となった。頼山陽とは、養父・三島が菅茶山と悶着のあった春水の長子・山陽を預かることとなり、小竹はすぐさま山陽の才能を見抜き、茶山との間柄を取り持ち常に山陽を擁護した。その友情は山陽の死後も続き、遺児の面倒までみている。また、大塩平八郎とも養父・三島に初読を習った弟子である関係で交流があったが、平八郎は陽明学者で朱子学者とは犬猿の仲であり、兄弟子である小竹とも学説上の対立があった。

嘉永4年(1851年)、死去。享年71。大坂天満天徳寺に葬られた。

大正13年(1924年)、従五位を追贈された[1]

《小野氏庭中三物記》

書画作品

  • 「小野氏庭中三物記」

著作

  • 『小竹詩文集』
  • 『酒人十詠帖』
  • 『小竹斎詩鈔』
  • 『小竹斎文稿』

脚注

  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.54

出典

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