馬杉雲外とは? わかりやすく解説

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馬杉雲外

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/26 02:40 UTC 版)

馬杉 雲外(ますぎ うんがい、1831年5月28日 - 1898年6月18日)は日本の儒学者漢学者漢詩人[1]幕末には勤王派の志士として、明治維新後は漢学塾を開いて教育に携わった。

旧姓は塩山(鹽山)。幼名は礼吉(禮吉)、長じて通称を玄蕃[2]または玄吾[3]とした。初名は義質、字は文礼(文禮)または文苞、諱は繋(つなぐ)、号は雲外(雲烟外史または雲煙外史)[1]

来歴

天保2年4月28日(グレゴリオ暦1831年5月28日)[注釈 1]、医師であった塩山善四郎[5](全齋[注釈 2])の長男として、京都三条に生まれた[2]1845年弘化2年)、数え14で山本亡羊の門下生となって[6][注釈 3]漢詩や歴史を学んだ。江戸にあった昌平坂学問所への遊学を望んだが、病弱であることを理由に父母から反対され、引き続き京都にとどまって大橋長広や清水完和、梁川星巌森田節斎といった当時在京の学者・歌人の下で学問を続けた。やがて雲外は尊皇思想を広めることが自身の進む道であると考えるに至り、家督を弟に譲って貸家に住んだ[2]

このことを聞きつけた興正寺門主の本寂が1855年(安政元年)の正月に彼を招き、馬杉氏[注釈 4][注釈 5]の家督を継ぐよう勧めた。雲外も本寂の博学ぶりや蔵書の多さに感銘を受け、馬杉を継ぐことを了承し本寂の近侍となった。この時期の医療への貢献として、当時まだ普及していなかった種痘の無料接種[9][注釈 6]、また安政年間に京都で流行したコレラへの対策をまとめた『秋窓夜話』の執筆などが挙げられる[10]

一方で尊皇思想への傾倒は続いており、山城国内の天皇陵を実地検分してその修復を訴えるなどした[11]安政の大獄が起きると江戸幕府の姿勢に怒り、倒幕を志向するようになった。1863年(文久3年)の天誅組の変に際しては自家製造の硝石で弾薬を製造し、三浦梅之助という変名を使って自ら輸送する[12]など後方支援を行ったが、ほどなく天誅組は壊滅し雲外も翌1864年(元治元年)京都守護松平容保の兵によって捕らえられ投獄された。しかし長州藩の挙兵(禁門の変)が起きたことで雲外は興正寺預かりとなり、自宅軟禁となって明治維新を迎えた。

維新後は民部官聴訟司で判司事に就き[13]、のち大蔵省に移るが[14]職を辞し、東京上野の花園町に蓮水荘を開いて後進の指導にあたった。著名な門下生としては根津嘉一郎入沢達吉(漢詩人としての号は雲荘)などが挙げられる。天誅組に関わった顛末などは、門人にはほとんど語られなかったという[4]

1898年(明治31年)6月12日[15][注釈 7]死去。墓地は染井霊園。1928年(昭和3年)11月に従五位が贈位された[16]

脚注

注釈

  1. ^ 1932年(天保3年)生まれ[4]あるいは1833年(天保4年)生まれ[1][3]とする資料もある。
  2. ^ 塩山齋と表記した資料もある[4]
  3. ^ 亡羊の次男山本榕室の記録によれば、雲外が亡羊の門下となったのは嘉永年間である[7]
  4. ^ 山本榕室の記録にある馬杉恒也が雲外の義父と推定する説がある[8]
  5. ^ 馬杉氏は近江国甲賀郡を出自とする一族で、その名は聖徳太子の馬が暴れたのを捕らえた功績によるという。豊臣家に仕えたことから大坂の陣で滅び、一族の子ども一人が興正寺に匿われて文学と医事に携わりながら家系を守ったとされる[2]
  6. ^ 京都における種痘は、これに先立つ1849年に日野鼎哉が実施している。
  7. ^ 1899年(明治32年)とする資料もある[1]

出典

  1. ^ a b c d デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「馬杉雲外」の解説”. コトバンク. 2025年4月26日閲覧。
  2. ^ a b c d 山本 1929, p. 傳2.
  3. ^ a b 遠藤 1993, p. 232.
  4. ^ a b c 安西 1981, p. 634.
  5. ^ 遠藤, 正治 著「読書室物産会について」、実学資料研究会 編『実学史研究 2』思文閣出版、1985年11月、83頁。NDLJP:12222981/47 
  6. ^ 安西 1981, p. 637.
  7. ^ 遠藤 1993, p. 203.
  8. ^ 遠藤 1993, p. 236.
  9. ^ 山本 1929, p. 傳3.
  10. ^ 安西 1981, p. 639.
  11. ^ 山本 1929, p. 傳4.
  12. ^ 山本 1929, p. 傳7.
  13. ^ 『官員録』和泉屋市兵衛、1869年、15頁。NDLJP:1885649/17 
  14. ^ 中島翠堂 編『官員鑑 明治9年5月』和泉屋市兵衛等、1875-1876、大蔵省2頁。NDLJP:779213/33 
  15. ^ 山本 1929, p. 傳16.
  16. ^ 安西 1981, p. 632.

著書

参考文献

  • 安西, 安周「第25章 馬杉雲外」『日本儒医研究』青史社、1981年8月、632-643頁。NDLJP:12644601/333 
  • 馬杉繋「文節馬杉繋先生傳(文・山本之寛)」『雲外余彩 乾』1929年、傳1-傳17頁。NDLJP:1208552/6 
  • 遠藤, 正治 著「山本榕室『日省簿』」、実学資料研究会 編『実学史研究 9』思文閣出版、1993年5月、201-252頁。NDLJP:12222629/106 



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