小野組転籍事件
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1870年(明治3年)、小野屋が本社機能を京都から江戸へ移そうとしたところ、長州藩出身で京都府権大参事の槇村正直によって為替業務に制限がかけられた。これにより小野屋の業務は支障をきたすようになり、小野屋は少しでも業務を簡潔にするために分家三社と合併、以後、小野組と名称を変える。 それでも業務の煩雑さは解決されなかったことから、1873年(明治6年)4月に小野組は京都府庁へ転籍を申し出るに至った。小野助次郎は神戸へ、小野善右衛門は東京への転籍を希望したが、京都府庁はその届出を処理しなかった。小野組は当時、すでに全国28の支店を持つ大商人であり、租税収入の減少と献納金の喪失は京都府には受け入れがたかった。神戸への転籍が受け入れられなかった小野助次郎はやむなく京都裁判所に「送籍命令」を出すよう訴え、小野善右衛門もそれに続いた。当時の明治政府は封建体制の範である移動の禁止を否定していたことから、戸籍制度を導入するにあたって移転の自由は認められていた。しかし、京都裁判所は京都府への遠慮から、訴訟を受け取りながら裁判を行おうとはしなかった。この行政と司法の癒着に激怒したのは司法卿江藤新平だった。担当の裁判官は更迭され、代わって派遣された北畠治房は小野組の戸籍の送付を命令したが、これでも問題は解決しなかった。 当時、京都府において長州閥が形成されており、京都府および知事長谷信篤、大参事槇村正直は命令に対して、政府に伺いをたてている途中だからと裁判所の命令に服そうとはしなかった。京都裁判所はこの京都府の対応を見て、受け入れを迫るとともに命令に服さない場合は六円の賠償金を知事と大参事に納付するよう命じる。それでもなお、京都府は前回と同様の理由で速やかな対応を拒否した。さらに征韓論を巡る一連の事件によって江藤新平が下野するにおよび、事態はますます膠着状態に陥りつつあった。 しかし、その法を無視した京都府の対応に、明治政府から疑問の声が上がる。声を上げたのは長州出身の文部卿木戸孝允だった。木戸は知事長谷信篤に裁判所の命令に従うよう説得を始めた。京都裁判所の北畠治房もより厳しい態度で京都府に臨むようになり、1873年(明治6年)12月31日、知事へ対して懲役100日もしくは贖罪金40円、大参事に対しては懲役100日もしくは贖罪金30円という命令を再度下し、両者がこれを守らないと見るや、大参事槇村正直が東京に出た機に身柄を拘束、ついに収監に至った。知事長谷信篤は司法の強硬な手法に動揺。ついに木戸の説得を受け入れ、翌1874年(明治7年)、ようやく送籍手続きがとられて小野助次郎、小野善右衛門両名の希望は叶った。
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