小野藩1万石
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寛永19年(1642年)、直家に嗣子が無く没したため丹波国園部藩主小出吉親の2男直次を直重の女婿として迎え、直家の嗣子として幕府に願い出た。しかし当時は末期養子が認められなかったため、伊予国にあった所領は没収されて天領となり、遺領相続という形で直次に播磨国加東郡内1万石を与えられた。 分領支配のために作られた敷地陣屋は規模が小さかったためか、承応2年(1653年)に直次は小野陣屋(小野市西本町、小野市立小野小学校付近)を築いて移っている。 3代末礼は駿河加番を延宝6年(1678年)・元禄3年(1690年)の2度務め、元禄5年(1692年)には大番頭となり、元禄16年(1703年)には5代将軍徳川綱吉の御側衆となった。 5代末栄の代に藩財政が悪化し、質素倹約を主とした財政再建を行い藩中興の祖となった。 9代末延の天保4年(1833年)には大規模な百姓一揆である「加古川筋一揆」が起こった。天保7年(1836年)には大国隆正を招聘し藩校「帰正館」を開校した。末延の嫡子で10代藩主となった末彦は生涯独身を通したため、丹波国綾部藩主九鬼隆都の5男を養子に迎え11代藩主末徳とした。末徳のもとで幕末を迎え、最後の藩主となる。累代の墓所は縁類の黒田氏と同じ東京都渋谷区、祥雲寺にある。 歴代藩主のうち、第3代から9代の藩主は駿河加番となっている(7代末昭のみ早世のため在番なし)。
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