川之江藩領の収公
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寛永19年(1642年)、一柳直家は父(西条藩主一柳直盛)の遺領から伊予国宇摩郡・周布郡に1万8600石を与えられ、播磨国加東郡の分領1万石と合わせて2万8600石の領主となり、宇摩郡川之江村内の神ノ木(現在の四国中央市川之江町)に陣屋を置いた(川之江藩)。しかし寛永19年(1642年)に直家が急死すると、養子手続きの不備(末期養子)のために伊予国内の知行地1万8600石は江戸幕府によって召し上げられた(一柳家は播磨国小野藩1万石の大名として存続する)。 川之江一帯の幕府領には幕府代官が置かれず、伊予松山藩(藩主松平定行)の預かり地とされた(松山藩側の記録では、寛永20年(1643年)に1万8900石余を預かったと記録している)。伊予松山藩は、旧一柳家の陣屋跡を代官所とし、頭取1人、代官1人、手附4人、手代6人を派遣し、年貢米の徴収・回送業務を中心とする預かり地支配業務を行った。なお川之江は、水陸交通に恵まれた土地であり、陣屋町は繁栄していたという。 延宝5年(1677年)、松山藩が宇摩郡の預かり地1万3500石余を幕府に返上したと記録がある。背景として、幕府が幕府領支配の大名依存を改め、有能な官吏を任命して年貢収納に当たらせる方針があったとみられる。以後、享保5年(1720年)まで44年間は幕府の直接支配となり、大坂代官所の管轄として官吏が川之江に在勤したと考えられている。 元禄11年(1698年)には、今治藩が関東地方に保有していた5000石の領地の替地として、宇摩郡内の幕府領18か村が与えられた。今治藩は三島村(四国中央市三島中央)に三島陣屋を置き、飛地領の支配を行った。
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