西条藩主
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寛永13年(1636年)8月19日、伊予国西条藩6万3000石への移封を受け、西条に赴く途中の父が大坂で死去。同年11月24日、遺領を3人の男子が分割して相続することが認められた。直重は宇摩・新居・周布の3郡にまたがる3万石を継承して伊予西条藩主となった。次弟の直家に2万3000石(川之江藩→小野藩)、三弟の直頼に1万石(小松藩)が分与されている。 西条藩は直重の入国によって実質的に成立したと言える。直重は西条平野北部の新居郡神拝村に西条陣屋を置き、喜多川の水路を付け替えて陣屋に濠を巡らせ、濠の余水を海に流すために本陣川を開削した。陣屋とそれを取り巻く武家屋敷地の東側に町人屋敷を置いて陣屋町(喜多浜町)の構築を行った。陣屋構築以前にすでに金毘羅街道沿いに町場が形成されて繫栄していた大町から有力商人を移住させた。加藤嘉明の家臣足立重信が着手していたとされる加茂川の治水工事を継続。新田開発を進めたために加茂川下流域には広大な新田地帯が出現した。 寛永17年(1640年)の讃岐高松藩の生駒高俊が改易された際には、今治藩主松平定房や大洲藩主加藤泰興と共に高松城在番を務めた。 正保2年(1645年)6月24日死去、48歳。跡を長男の直興が継いだ。
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