一柳直家
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一柳 直家(ひとつやなぎ なおいえ)は、江戸時代初期の大名。伊予国川之江藩主。播磨小野藩主一柳家初代[3]。
注釈
- ^ 大納言を務めた公家
- ^ 『寛政譜』では「某氏」[1]。
- ^ このため父の遺領が6万3000石とされる[1]。
- ^ 『愛媛県史』では播磨小野1万石と伊予宇摩郡・周敷郡で1万8600石(合計2万8600石)を領したとする[6]。
- ^ 『寛政重修諸家譜』では当初から播磨国小野に居したとある[1](小野藩)。『愛媛県史』では次代の直次が小野に陣屋を構えたとあり[6]、小野市側でも直次が承応2年(1653年)に小野陣屋を築いたとある[8]。『日本大百科全書(ニッポニカ)』では、直次が寛永20年(1643年)に相続を認められたことをもって小野藩の成立とする[9]。
- ^ 川之江町栄町に「一柳直家公陣屋跡」の碑がある[11]。「一柳陣屋門」と呼ばれる建築物が川之江八幡神社にあり(国登録文化財)、直家が建築した陣屋の表門を移築したものと伝えられている[12][13]。
- ^ のち渋谷に移転[1]。
- ^ 『寛政重修諸家譜』によれば、正室高倉氏との間に女子2人[1]。
- ^ 直次は、直家の弟である一柳直頼(小松藩主)の妻の弟にあたる[6][7]。
- ^ 『寛政譜』では姉妹のうち妹[1]。
- ^ 収公された伊予国内の領地は伊予松山藩の預かり地となり、管理のために川之江陣屋跡に川之江代官所が置かれた[7]。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『寛政重修諸家譜』巻第六百四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.157、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.157。
- ^ 一柳貞吉 1933, p. 47.
- ^ “一柳直家”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年9月19日閲覧。
- ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第六百三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.155、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.155。
- ^ “天領/愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。
- ^ a b c d e f “ひ/愛媛県史 人物(平成元年2月28日発行)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。
- ^ a b c d e “宇摩郡の天領/愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。
- ^ a b 佐野充彦「「おの歴史散歩」vol.52 「城下町」への憧憬やまず」『広報おの』第657巻、小野市、2014年12月、34頁、2021年9月11日閲覧。
- ^ “小野藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2021年9月19日閲覧。
- ^ “陣屋町の形成/愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。
- ^ “「歴博まちあるき」を開催しました”. 紙のまち図書館 (2021年3月21日). 2021年9月19日閲覧。
- ^ “一柳陣屋門”. 文化遺産オンライン. 2021年9月19日閲覧。
- ^ “一柳陣屋門”. 四国中央市教育委員会. 2021年9月19日閲覧。
[続きの解説]
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