旧加藤家領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 18:38 UTC 版)
加藤嘉明は寛永4年(1627年)に会津に転封され、代わって蒲生忠知が24万石で入った。蒲生氏は寛永11年(1634年)に無嗣断絶となり、翌寛永12年(1635年)、松山に松平定行が15万石で入り(伊予松山藩)、西条には一柳直盛が6万3000石で入ることとなった。 一柳直盛は入封の途上大坂で病没し、遺領は3人の子一柳直重(西条藩3万石)・一柳直家(川之江藩2万8000石)・一柳直頼(小松藩1万石)で分割された。寛永19年(1642年)、川之江藩一柳家は末期養子を咎められ伊予国内の領地を収公され(播磨国小野藩1万石として存続)、川之江周辺は幕府領となった。寛文5年(1665年)に西条藩の一柳直興は改易処分を受けた。その後幕府領となった時期を経て、寛文10年(1670年)には紀州徳川家連枝の松平頼純(徳川頼宣の三男)が3万石で入封した(西条藩)。
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