よそ‐いき【余▽所行き】
よそ‐ゆき【余▽所行き】
よそ行き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 06:06 UTC 版)
「よそ行き」は「デリョウ」とも言った。西は兵庫県但馬の城崎や鳥取県方面まで、東は福井県小浜まで遠征した。船頭の男2名と海女4~5名が組んで操業し、海女は若手から中年にかけての元気な海女達が「よそ行き」を担った。1回が5日間くらいの行程で、盆までの間に海女1人あたり2~3回は行ったという。 「よそ行き」には、蚊帳と味噌と醤油を携え、洞窟や浜辺の小屋や船を寝床に漁場をまわり、当地の村人も気づかないうちにテングサ(石花菜)を採取して去った。その漂泊性から、他国の人は袖志の海女船を「丹後のヌスットブネ」とよんだ。袖志の海女たちの船は、船頭が櫓を漕ぎ海女は櫂を漕ぐ、3枚櫂や4枚櫂とよばれる非常に足が速い船だった。他の浦の者達は「袖志の前では櫂かくな」といい、その速さを比べられることをおそれた。とはいえ、小浜から但馬にかけての海でテングサを採る村は、袖志のほかに無く、利害が対立したわけではなかった。舞鶴や小浜の大島半島など毎年出かける土地では良好な関係もでき、大きな農家の屋敷に無償で泊めてもらえることもあった。廃藩置県以後も、袖志には、袖志の者はどこの海でも自由にテングサを採って良いとする旨を記載した高橋是清農林大臣(当時)の署名入りの許可書があり、他浦での自由操業は公認されていた。万が一「よそ行き」で他浦の者ともめた際には見せられるよう、海女たちはその写しを携帯していた。 しかし、明治期に制定された漁業法で地先漁業権が設定されると、袖志の海女は長年の経験から発見してきた各地の漁場の多くを失うこととなった。袖志は慣行による入漁権を主張したが、相手の村々はこの海に袖志の海女が来たことは一度もないと主張し、これを否定した。唯一、東大浦村字野原(舞鶴市)においては、毎年訪れる海女と親しくなって子をなした若者がいたことが動かぬ証拠となり、裁判の末に袖志の海女は慣習に基づき野原での漁を許されることとなった。以後、野原の漁業者達は毎年袖志の海女が遠征してくる夏がくる前、春のうちに、船の上から長竿を入れてテングサを巻き取り、長さにしておよそ3分の2の部分を根こそぎ採取してしまうようになったが、後からやってくる袖志の海女が潜って採取する海底付近の海藻の方が質が良く2倍の値が付いたという。 相手先の海に入漁権が認められて以後は、第1回目は田植えの時期に行き、第二回目はサナボリを済ませてから7月10日~8月20日くらいまで滞在して漁をした。小舟で出漁し、海女が潜って採取したものをスマブクロに入れて船に上げ、それが溜まると船頭の1人が陸に運んで岩場に干した。 「よそ行き」での収入は全員で平等に分割し、これを「アタマワリ」と呼んだ。潜りに長けた海女と組めれば船頭の収入も増えるので、船頭たちは漁期の始まりや終わりに下駄や腰巻などの贈り物を携え、熟練の海女に自分の船に乗ってくれるよう頼みにいったという。
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