岡部家時代とは? わかりやすく解説

岡部家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 15:05 UTC 版)

岸和田藩」の記事における「岡部家時代」の解説

松平康映妻の父である岡部宣勝摂津国高槻藩より6万石で入封し、以後明治維新まで岡部氏所領となった。宣勝の入封当初松平氏の代に高直となったことに不満を持っていた南郡日根郡領民強訴寛永強訴)を行った。これに対し領民対話して3千石領民分配し一揆未然防いだまた、岸和田城改修寺社建立復興行い名君賞賛されている。 2代行隆は寛文元年1661年)、襲封と同時に弟の高成に5千石豊明に2千石分知し、以後表高5万3千石となった3代長泰元禄16年1703年)、京都伏見稲荷大社岸和田城三の丸勧請し五穀豊穣祈願する稲荷祭行った。これが全国的に有名な岸和田だんじり祭」の起源と言われている。 4代長敬は享保7年1722年)に「享保備定」と呼ばれる藩の軍制整備行い格式知行高に基づく陣法制定した以後、これが岸和田藩軍制基準となったサトウキビ栽培製糖業木綿栽培綿布生産などを特産とし、比較余裕のあった藩財政は、延宝3年1675年)の飢饉や、宝永4年1707年)の地震等により18世紀半ばになると窮乏する至ったその後歴代藩主財政再建のため様々な藩政改革行ったが、目立った効果もなく幕末至った天保8年1837年)には大塩平八郎の乱起こり岸和田藩大坂城守備当たった11代長発は嘉永5年1852年)に藩校講習館」を開いた次の藩主長寛慶応2年1866年)に藩校増築し修武館」と改称したまた、幕末の動乱の中で藩論勤王佐幕両派に分かれたが、慶応4年1868年)に始まった戊辰戦争には新政府軍として参戦した明治元年1868年)の藩領数は南郡52日根郡43明治4年1871年)、廃藩置県により岸和田県となる。その後堺県経て大阪府編入された。 明治11年1878年)、元の藩主長職依頼新島襄キリスト教布教訪れる。 なお、最後藩主である長職は、廃藩置県以後明治政府要職に就き外務次官東京府知事第2次桂内閣司法大臣などを歴任した岡部家明治2年1869年)に華族列し明治17年1884年)に子爵となった

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