岡部家時代
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松平康映の妻の父である岡部宣勝が摂津国高槻藩より6万石で入封し、以後は明治維新まで岡部氏の所領となった。宣勝の入封当初、松平氏の代に高直しとなったことに不満を持っていた南郡・日根郡の領民が強訴(寛永の強訴)を行った。これに対し、領民と対話して3千石を領民に分配し、一揆を未然に防いだ。また、岸和田城の改修、寺社の建立や復興を行い、名君と賞賛されている。 2代行隆は寛文元年(1661年)、襲封と同時に弟の高成に5千石、豊明に2千石を分知し、以後の表高は5万3千石となった。 3代長泰は元禄16年(1703年)、京都の伏見稲荷大社を岸和田城三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願する稲荷祭を行った。これが全国的に有名な「岸和田だんじり祭」の起源と言われている。 4代長敬は享保7年(1722年)に「享保備定」と呼ばれる藩の軍制の整備を行い、格式・知行高に基づく陣法を制定した。以後、これが岸和田藩の軍制の基準となった。 サトウキビ栽培と製糖業や木綿の栽培と綿布生産などを特産とし、比較的余裕のあった藩財政は、延宝3年(1675年)の飢饉や、宝永4年(1707年)の地震等により18世紀半ばになると窮乏するに至った。その後、歴代藩主は財政再建のため様々な藩政改革を行ったが、目立った効果もなく幕末に至った。 天保8年(1837年)には大塩平八郎の乱が起こり、岸和田藩は大坂城の守備に当たった。 11代長発は嘉永5年(1852年)に藩校「講習館」を開いた。次の藩主長寛は慶応2年(1866年)に藩校を増築し「修武館」と改称した。また、幕末の動乱の中で藩論は勤王・佐幕両派に分かれたが、慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争には新政府軍として参戦した。 明治元年(1868年)の藩領村数は南郡52・日根郡43。 明治4年(1871年)、廃藩置県により岸和田県となる。その後、堺県を経て大阪府に編入された。 明治11年(1878年)、元の藩主長職の依頼で新島襄がキリスト教布教に訪れる。 なお、最後の藩主である長職は、廃藩置県以後は明治政府の要職に就き、外務次官・東京府知事・第2次桂内閣の司法大臣などを歴任した。 岡部家は明治2年(1869年)に華族に列し、明治17年(1884年)に子爵となった。
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