キリスト教の禁止とは? わかりやすく解説

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キリスト教の禁止

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:48 UTC 版)

鎖国」の記事における「キリスト教の禁止」の解説

ポルトガル船が来航するうになると、「物」だけではなくキリスト教入ってきた。1549年フランシスコ・ザビエル日本来航以来イベリア半島スペインポルトガル)の宣教師の熱心な布教によって、また戦国大名徳川幕府下の藩主にもキリスト教信奉する者が現れたため、キリスト教徒当時の名称では「切支丹」)の数は九州中心に広く拡大した当時近畿地方から東海地方勢力圏としていた織田信長は、これを放任豊臣秀吉当初黙認していたが、1587年バテレン追放令出し1596年サン=フェリペ号事件発生すると、切支丹対す直接迫害始まった日本二十六聖人殉教事件)。 家康当初貿易による利益重視していたが、プロテスタント国家オランダは「キリスト教布教伴わない貿易も可能」と主張していたため、家康にとって積極的に宣教師キリスト教保護する理由なくなったまた、1612年岡本大八事件きっかけに、諸大名幕臣へのキリスト教の禁止を通達、翌1613年に、キリスト教信仰禁止明文化された。また、国内キリスト教徒増加団結徳川将軍家にとっても脅威となり、締め付けを図ることとなった考えるのも一般的である。ただこの後家康対外政策貿易制限意図全くないことからこの禁教令は「鎖国」と直結するものではないとする指摘もある。 当時海外布教積極的に行っていたキリスト教勢力は、キリスト教中でも専らカトリック教会であり、その動機として、宗教改革端を発するプロテスタント勢力伸張により、ヨーロッパ本土旗色悪くなっていたカトリック海外活路求めざるを得なかったという背景がある。一方通商による実利重きを置いていたプロテスタント勢力にはそのような宗教的な動機薄く、特に当時スペインからの独立戦争八十年戦争)の只中にあったオランダは、自身直近までカトリックスペインによる専制的支配宗教的迫害を受け続けたという歴史的経緯から、カトリック対す敵対意識とりわけ強かったことも、徳川幕府に対して協力的であった理由と言えるとは言うものの中国拠点持たないオランダイギリス直ちポルトガル代替ならない以上、ポルトガルとの交易続けざるを得なかった。 なお、キリスト教に関しては、単に国内禁止するだけでなく、海外スペイン・ポルトガル根拠地攻撃する計画もあった。当時オランダ商館次席であったフランソワ・カロン1637年9月長崎奉行榊原職直に対して日蘭同盟してマカオマニラ基隆攻撃することを提案したその後まもなく長崎代官末次茂貞は、商館長ニコラス・クーケバッケル対し翌年フィリピン攻撃するため、オランダ艦隊による護衛要請している。しかし、この計画翌年島原の乱立ち消えとなった

※この「キリスト教の禁止」の解説は、「鎖国」の解説の一部です。
「キリスト教の禁止」を含む「鎖国」の記事については、「鎖国」の概要を参照ください。

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