商館長
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1639年2月12日にはクーケバッケルの後を受けて商館長となった。1627年に続き、1633年、1635年、1636年、1639年、1640年、1641年に江戸に参府している。 島原の乱の後、1639年にポルトガル船の入港が禁止されたが(第5次鎖国令)、それに先立ち幕府はカロンに対してポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している。 1640年、通商再開を願って来日したポルトガル人が全員死罪となった。これを知ったカロンはオランダに対しても厳しい運命が待っているであろうことを予想した。その予想通り、同年に大目付井上政重と長崎奉行柘植正時が平戸に派遣され、カロンに倉庫の破壊を命じた。理由は、1638年に建設された商館の倉庫に西暦が彫られているというものであった。カロンがこの命令に異議を唱えた場合、カロンをその場で殺害し、平戸オランダ商館は熊本・島原・柳河諸藩により攻撃が加えられることとなっていた。この行為は将軍家光の専断によるものであり、必ずしも幕府全体の意向ではなかった。しかし、滞在20年を超えるカロンは日本の現状を理解しており、命令に従って倉庫を破壊した。 この後、ポルトガル人が追放されて空いていた出島にオランダ商館は移された。カロンのこの対応に感謝する意味もあって、その後井上政重は、オランダ人のために便宜をはかるようになった。 1641年2月10日、商館長の職をマクシミリアン・ル・メールに委ね、2月12日には家族と共にバタヴィアに向けて平戸を出帆した。 カロンが商館長を務めていたときに、商館員のハンス・アンドリースが日本人既婚女性と密通し、両名とも死罪になる事件が発生している。また、幕府の依頼により、部下の鋳物師であるハンス・ヴォルフガング・ブラウンに臼砲の製造を行なわせている(島原の乱の際に、当時の技術では炸裂弾が使えないカノン砲(初速が速いため、対応可能な信管が無かった)があまり役に立たず、幕府は炸裂弾の使用が可能な臼砲(カノン砲より低初速)に目をつけた)。
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