商館長とは? わかりやすく解説

商館長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:13 UTC 版)

フランソワ・カロン」の記事における「商館長」の解説

1639年2月12日にはクーケバッケルの後を受けて商館長となった1627年続き1633年1635年1636年1639年1640年1641年江戸参府している。 島原の乱の後、1639年ポルトガル船の入港禁止されたが(第5次鎖国令)、それに先立ち幕府カロンに対してポルトガル代わりオランダ必需品提供できるかを確認している。 1640年通商再開願って来日したポルトガル人全員死罪となった。これを知ったカロンオランダに対して厳し運命待っているであろうことを予想した。その予想通り同年大目付井上政重長崎奉行柘植正時平戸派遣されカロン倉庫破壊命じた理由は、1638年建設され商館倉庫西暦彫られているというものであったカロンがこの命令異議唱えた場合カロンその場殺害し平戸オランダ商館熊本島原柳河諸藩により攻撃加えられることとなっていた。この行為将軍家光の専断よるものであり、必ずしも幕府全体意向ではなかった。しかし、滞在20年超えるカロン日本の現状理解しており、命令に従って倉庫破壊したこの後ポルトガル人追放されて空いていた出島オランダ商館移された。カロンのこの対応に感謝する意味もあって、その後井上政重は、オランダ人のために便宜をはかるようになった1641年2月10日、商館長の職をマクシミリアン・ル・メール委ね2月12日には家族と共にバタヴィア向けて平戸出帆したカロンが商館長を務めていたときに、商館員のハンス・アンドリースが日本人既婚女性密通し両名とも死罪になる事件発生している。また、幕府依頼により、部下鋳物師であるハンス・ヴォルフガング・ブラウン臼砲製造を行なわせている(島原の乱の際に、当時技術では炸裂弾使えないカノン砲初速速いため、対応可能な信管無かった)があまり役に立たず幕府炸裂弾使用可能な臼砲カノン砲より低初速)に目をつけた)。

※この「商館長」の解説は、「フランソワ・カロン」の解説の一部です。
「商館長」を含む「フランソワ・カロン」の記事については、「フランソワ・カロン」の概要を参照ください。

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