商館時計の意義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 23:47 UTC 版)
明治初めまでの日本は太陰太陽暦(天保暦)であった。天保暦では時刻は不定時であり、和時計でしか表せなかった。和時計は複雑かつ非常に高価であり、所持しているのは大名などに限られたので、当時の人々のほとんどは時計を見ることはなかったのである。明治5年に現在と同じグレゴリオ暦が採用される。鉄道が走り、工場を稼働させるなど時計が必要とされる場面が増え、その需要に答えるべく大量に懐中時計が輸入された。最盛期には、時計商が横浜や神戸の商館に仕入れに行った帰りに、立ち寄った町で時計が全部売れてしまい、また商館にトンボ返りせねばならなかったという逸話があるほど爆発的な売れ行きであったという。つまり、日本で多くの人が初めて手にし、役立てた洋式時計が商館時計であったのである。 グレゴリオ暦採用から、国産時計の生産までには数十年を要した。最初期国産懐中時計の一つ精工舎「タイムキーパー20型」(明治27~29年頃)は、外観や内部構造など商館時計を参考にしたと見られる特徴がある。日本の時計産業の始まりにも大きな足跡を残したといえる。
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