阿蘭陀風説書とは? わかりやすく解説

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阿蘭陀風説書

読み方:オランダフウセツガキ(orandafuusetsugaki), オランダフウセツショ(orandafuusetsusho)

海外情報オランダ商館長まとめてつくった報告書


阿蘭陀風説書

主名称: 阿蘭陀風説書
指定番号 109
枝番 0
指定年月日 2000.12.04(平成12.12.04)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 歴史資料
ト書 寛政九年六月
員数 1通
時代区分 江戸
年代 寛政9年
検索年代
解説文: 阿蘭陀風説書は、毎年長崎入港するオランダ船が、長崎奉行所通じ江戸幕府提出した和文訳のことで、その翻訳にはオランダ通詞【つうじ】が当たった
 唐船風説書とともに鎖国時代における海外知識迅速に知る上で重要な情報源であり、広く一般海外情報箇条書形式書き上げて提出された。寛永十八年(一六四一以降は、毎年提出義務づけられ、幕末期安政六年(一八五九)七月まで継続した
 この江戸博本の形状は、台紙装【だいしそう】で料紙には四紙継ぎ楮紙【ちょし】を用い、「風説書」の内題続いて箇条書形式にて六箇条書き上げている。本文末には「かひたん/げいすべるとへんみい」とあって当時商館長ゲイスベルト・ヘンミー(Gijsbert Hemmij 在任期間一七九二年十一月十三日一七八年七月八日)の自署据えている。奥書に「巳/六月廿八日」とみえ、通詞目付・三嶋五郎助通詞・加福安次郎石橋助左衛門中山三郎ほか、都合九名の署名・捺印があり、本文中には加筆・訂正等の跡はなく、提出原本としての体裁伝えている。
 その内容中心は、第三および第四箇条収められフランス内乱勃発したこと、オランダイギリス軍の攻撃被りベンガルコロマンデル海岸商館横領されたこと、ロシア女帝エカテリーナ二世逝去しトルコ交戦するなど、ヨーロッパ諸国戦争状態になっていること、商館長交代期年であるが航路中の敵船防御などの理由から新館長は派遣しないこと、など当時の新情報要約して記載されている。
 この阿蘭陀風説書は、商館長ヘンミー自署奥書等の記載内容等を勘案する寛政九年(一七九七)六月二十八日付であることが判明する
 なお、先述事情等により、この年来航船はオランダではなく実際バタビア総督府雇い入れたアメリカであった
 伝来経緯については、収納箱の貼り紙によれば江戸時代後期北方探検家であるとともに紅葉山文庫もみじやまぶんこ】の書籍類渉猟し外蕃通書がいばんつうしょ】』『右文故事【うぶんこじ】』等の著述知られ書物奉行歴任した近藤重蔵【じゆうぞう】(一七一-一二九)の旧蔵とされ、重蔵末裔にあたる永澤家を経て今日至ったのである
 阿蘭陀風説書の写本は、長崎県図書館等の他、各所多数保管されているが、原本として確認されるのはこの江戸博本が唯一のものであり、鎖国時における日蘭交渉史、および近世対外交渉研究上等に貴重である。

オランダ風説書

(阿蘭陀風説書 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/18 23:52 UTC 版)

オランダ風説書(オランダふうせつがき、阿蘭陀風説書)は、日本が鎖国政策をとっていた時期に江戸幕府オランダ商館長に提出させた、海外事情に関する情報書類である。

唯一のヨーロッパの貿易国オランダ

1600年、イギリス人のウィリアム・アダムスとオランダ人のヤン・ヨーステンが来日し、徳川家康と面会(リーフデ号事件)。これが契機となって、イギリスオランダの2国との貿易が開始された(イギリスは1613年、オランダは1609年)。

1612年、幕府は人民統制のため禁教令を出す。また、貿易統制のため1616年には貿易地を平戸長崎に限定した。しかし、1624年アジア地域におけるオランダとの貿易競争に敗れたイギリスが平戸から商館を引き上げ撤退。1625年にはキリスト教布教国として、また、それによって自国が侵略される恐れがあるとしてスペイン船の来航を禁止した。1639年ポルトガル船の来航も禁止され、鎖国は実質的な完成を遂げた。 そんな中、唯一のヨーロッパの貿易国として生き残ったのがオランダであった。

オランダ風説書

しかしながら、貿易ができると言っても極めて限定された貿易であった。貿易地は、長崎に埋立地として作られた出島である。ここに、オランダ商館が建てられ、両国は取引をした。寛永17年(1640年)、幕府はカトリック国であるポルトガル・スペインの動向を知るため、オランダ船が入港するたびに情報を提供することを要求した。情報の提供は翌年の寛永18年(1641年)から開始された。これがオランダ風説書である。風説書はオランダ商館長(カピタン)が作り、それを通詞が日本語に直した。後には、ポルトガル・スペインだけではなく、他のヨーロッパ諸国、インドなどの情報も記載されていた。以降、これは幕府が鎖国中に海外事情を知る上で非常に重要な役割を果たしていく。

別段風説書

風説書は、カピタンが口述したものを通詞がまとめたもので、長崎で作成された。これに対して、バタヴィアの植民地政庁で作成されたのが、別段風説書であり、1840年から提供が開始された。これは、植民地政庁がアヘン戦争とその影響を幕府に知らせた方が良いと判断したためである。こちらの方はオランダ語で作成され、それを基に日本語に翻訳された。1846年からは、アヘン戦争関係に限らず、世界的な情報が提供されるようになった。その情報源は、中国の英国植民地などで発行される英字新聞であった。別段風説書の中で最も有名なものが1852年に提供されたペリー来航に関するものである。本来風説書は秘密文書とされていたが、このペリー来航予告は外部にもれており、幕府関係者以外にも知れ渡っていた。

関連文献

原典
  • 『和蘭風説書集成(上・下)』、吉川弘文館、1977 - 79年
日蘭学会・法政蘭学研究会編、岩生成一監修
研究文献
  • 板沢武雄『日蘭文化交渉史の研究』 吉川弘文館、1959年
  • 松方冬子『オランダ風説書と近世日本』 東京大学出版会、2007年
  • 松方冬子 『オランダ風説書 「鎖国」日本に語られた「世界」』 中公新書、2010年

関連項目

外部リンク



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