鎖国令と島原の乱とは? わかりやすく解説

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鎖国令と島原の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:45 UTC 版)

禁教令」の記事における「鎖国令と島原の乱」の解説

詳細は「鎖国」および「島原の乱」を参照 元和2年1616年)に幕府秀忠)は最初鎖国令厳密に鎖国令ではない)「二港制限令」を出しその中で下々百姓に至るまで」とキリスト教の禁止厳格に示した以後鎖国体制構築されていくが、それは宣教師潜入を防ぐ、海外渡航した日本人キリシタンになるのを防ぐという側面持っていた(ただし、鎖国自体目的キリスト教弾圧ではない)。鎖国完成させた家光鎖国令の中でキリスト教弾圧直接指示したことはなかったが、長崎奉行への大綱の中でキリスト教徒捜索逮捕指示している。 1630年松倉重政フィリピン侵略計画立て幕府申し出た将軍徳川家光マニラへの日本軍派遣確約することは控えたが、重政にその可能性調査し軍備整えることを許した1630年12月14日重政長崎奉行竹中重義協力得て吉岡九郎右衛門木村之丞という二人家来マニラ送りスペイン守備を探らせた。彼らは商人変装し貿易発展について話し合いたいとの口実ルソン島渡航したそれぞれ10人の足軽従えていたが、嵐の中の帰路木村部下10名とも死亡したマニラへの先遣隊1631年7月日本に帰国したが1632年7月までスペイン側厳戒態勢をしいていた[42]。重政軍備として3,000の弓と火縄銃集めたという。この作戦侵略指揮官である松倉重政突然の死によって頓挫したフィリピン侵略息子松倉勝家の代となる1637年においても検討なされたその後5年間はフィリピンへの遠征考慮されなかったが、日本迫害から逃れてきたキリスト教難民マニラ到着し続け一方で日本への神父逆流続いていた……松倉重政の後を継いだ息子松倉勝家は、父に劣らず暴君キリスト教の敵であったが、勝家島原大名として在任中に最後フィリピン侵略企て遭遇することになる。 — 海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー69(4)102016、pp. 8-9 オランダ人1637年フィリピン侵略計画発案者徳川家光だと確信していたが、実際将軍ではなく上司機嫌をとろうとしていた榊原職直馬場利重だったようである。遠征軍松倉勝家などの大名将軍代理として供給しなければならなかったが、人数については、松倉重政計画していた2倍の1万規模遠征軍想定されていた。フィリピン征服司令官松倉勝家が有力であったが、同年におきた島原の乱によって遠征計画致命的な打撃受けた鎖国令構築されていく中で起こった島原の乱は、参加した農民キリスト教拠り所にしていたという点で幕府大きな衝撃与えた。 この時期にも宣教師潜入潜伏はやはり続いており、寛永14年1637年)には琉球経由密入国企てていたドミニコ会宣教師ら4人が長崎処刑されている。しかし、鎖国完成と共に潜伏していた、あるいは潜入試みていた宣教師達は姿を消していった(ジョバンニ・シドッチのように完全に密入国試みる者がいなくなったわけではない)。

※この「鎖国令と島原の乱」の解説は、「禁教令」の解説の一部です。
「鎖国令と島原の乱」を含む「禁教令」の記事については、「禁教令」の概要を参照ください。

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