鎖国の終焉と艦船修理需要の発生
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「横須賀海軍施設ドック」の記事における「鎖国の終焉と艦船修理需要の発生」の解説
嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航し、翌嘉永7年(1854年)には日米和親条約が締結され、日本の鎖国体制は終焉を迎えた。そのような中、江戸幕府は嘉永6年(1853年)9月、これまで禁止していた荷物船以外の大型船の建造を認めることとした。これは諸外国の船が相次いで日本へ来航する状況を踏まえ、軍艦の建造を可能とすることを狙ったものであった。早速幕府は浦賀にて鳳凰丸の建造を開始し、その後も艦船の建造を継続し、さらに欧米各国から艦船の購入を進めた。 幕府が艦船の建造と購入を進めていく中で、保有する艦船の修理を行う必要性が高まってきた。幕府が購入した艦船の多くが中古船であったうえ、慣れない西洋式の艦船の操船で、事故によって船が損傷することも多かったことが修理の必要性をより高めた。幕府はまず、湾が深くかつ水深もあるため、風待ちの港として利用されてきた浦賀に艦船の修理場所を設けた。しかし浦賀は狭い湾の周囲に山が迫っている上に、これまで港町として繁栄していたために広い土地が取れず、恒久的な艦船の修復場所としては適さないとの意見が出されるようになった。 そのような中、注目されるようになってきたのが横須賀と長浦であった。特に横須賀では万延元年(1860年)に座礁したアメリカ船の修理を行って以降、オランダ船やイギリス船の修理が行われており、港湾としての有用性が注目されるようになっていた。 幕府は安政2年(1855年)に長崎海軍伝習所を開き、文久元年(1861年)には長崎製鉄所となり、製鉄所、造船所に当たる設備を持つようになっていた。しかし長崎は江戸から遠い九州にあって外様大名の勢力に囲まれており、また設備的にも本格的なものにはほど遠く、江戸に近い場所で本格的な製鉄や造船の機能を備えた施設の建設が望まれるようになった。 文久2年(1862年)、幕府は長崎でオランダ人技師から江戸近辺で製鉄所の建設を開始するに当たり、アドバイスを受けた。オランダ人の技師からは、当時の長崎製鉄所の設備は貧弱であり大規模な船の建造や修復は出来ないこと、そしてフランスのトゥーロン、シェルブールなど、当時のヨーロッパ最先端の製鉄、造船施設のあらましについて説明を受けた。さらに江戸の周辺は水深が浅く、また河川からの砂の流入で砂底のため、製鉄所の建設には適さないとの意見を受けた。 同年、幕府は横浜から三浦半島付近を視察して製鉄所の適所を探す試みも行った。しかし文久2年8月21日(1862年9月14日)、生麦事件が発生し、幕府と諸外国との外交関係が緊迫する中、江戸に近い場所での製鉄所建設計画はいったん中断された。
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