鎖国の終焉と艦船修理需要の発生とは? わかりやすく解説

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鎖国の終焉と艦船修理需要の発生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:58 UTC 版)

横須賀海軍施設ドック」の記事における「鎖国の終焉と艦船修理需要の発生」の解説

嘉永6年1853年)、ペリー艦隊来航し、翌嘉永7年1854年)には日米和親条約締結され日本鎖国体制終焉迎えたそのような中、江戸幕府嘉永6年1853年9月これまで禁止していた荷物以外の大型船建造認めこととした。これは諸外国の船が相次いで日本来航する状況踏まえ軍艦建造を可能とすることを狙ったものであった。早速幕府浦賀にて鳳凰丸建造開始しその後艦船建造継続し、さらに欧米各国から艦船購入進めた幕府艦船建造購入進めていく中で、保有する艦船修理を行う必要性高まってきた。幕府購入した艦船多く中古船であったうえ、慣れない西洋式艦船操船で、事故によって船が損傷することも多かったことが修理必要性をより高めた幕府はまず、湾が深くかつ水深もあるため、風待ちの港として利用されてきた浦賀艦船修理所を設けた。しかし浦賀は狭い湾の周囲に山が迫っている上に、これまで港町として繁栄していたために広い土地取れず恒久的な艦船修復場所としては適さないとの意見出されるようになったそのような中、注目されるようになってきたのが横須賀長浦であった。特に横須賀では万延元年1860年)に座礁したアメリカ船の修理行って以降オランダ船やイギリス船の修理が行われており、港湾としての有用性注目されるようになっていた。 幕府安政2年1855年)に長崎海軍伝習所開き文久元年1861年)には長崎製鉄所となり、製鉄所造船所に当たる設備を持つようになっていた。しかし長崎江戸から遠い九州にあって外様大名勢力囲まれており、また設備的にも本格的なものにはほど遠く江戸に近い場所で本格的な製鉄造船機能備えた施設の建設望まれるようになった文久2年1862年)、幕府長崎オランダ人技師から江戸近辺製鉄所の建設開始するに当たり、アドバイス受けたオランダ人技師からは、当時長崎製鉄所設備貧弱であり大規模な船の建造修復出来ないこと、そしてフランストゥーロンシェルブールなど、当時ヨーロッパ最先端製鉄造船施設あらましについて説明受けた。さらに江戸周辺水深浅く、また河川からの砂の流入砂底のため、製鉄所の建設には適さないとの意見受けた同年幕府横浜から三浦半島付近視察して製鉄所適所探す試み行った。しかし文久2年8月21日1862年9月14日)、生麦事件発生し幕府諸外国との外交関係が緊迫する中、江戸に近い場所での製鉄所建設計画はいったん中断された。

※この「鎖国の終焉と艦船修理需要の発生」の解説は、「横須賀海軍施設ドック」の解説の一部です。
「鎖国の終焉と艦船修理需要の発生」を含む「横須賀海軍施設ドック」の記事については、「横須賀海軍施設ドック」の概要を参照ください。

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