鎖国祖法観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:48 UTC 版)
実現はしなかったものの、18世紀後半に蝦夷地開発に関連して田沼意次はロシアとの貿易を考慮しており、松平定信もロシアとの小規模な貿易を考えて、蝦夷地に来航したアダム・ラクスマンに信牌(長崎への入港許可証)を与えていた。この信牌を持ったニコライ・レザノフが1804年に長崎に来航し、通商交渉が行われたが、幕府は最終的に通商を拒否した。「海外との交流を制限する体制を自己の基本的な外交政策とする」という明確な認識(鎖国祖法観)を徳川幕府自身がもったのは、この事件をきっかけにしているという説もある。ただし、幕閣の中で「鎖国」という言葉が用いられた初出は1853年と指摘されているとおり、「鎖国祖法」というのは後世の研究者による講学上の造語で、当時の資料では単に「祖法」とされている。
※この「鎖国祖法観」の解説は、「鎖国」の解説の一部です。
「鎖国祖法観」を含む「鎖国」の記事については、「鎖国」の概要を参照ください。
- 鎖国祖法観のページへのリンク