対外的危機と開国への期待
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 23:25 UTC 版)
「蛮社の獄」の記事における「対外的危機と開国への期待」の解説
天保年間、日本社会は徳川幕府成立から200年以上が経過して幕藩体制の歪みが顕在化し、欧米では産業革命が推進されて有力な市場兼補給地として極東が重要視され、18世紀末以来日本近海には異国船の来航が活発化し始めた。 寛政5年(1793年)のラクスマンの根室来航を契機として、幕府老中松平定信は鎖国祖法観を打ち出した。幕府の恣意的規制の及ばない西洋諸国との接触は、徳川氏による支配体制を不安定化させる恐れが強く、鎖国が徳川覇権体制の維持には不可欠と考えたためである。一方でこの頃から、蘭学の隆盛とともに蘭学者の間で西洋への関心が高まり開国への期待が生まれ始め、庶民の間でも鎖国の排外的閉鎖性に疑問が生じ始めていた。文政7年(1824年)には水戸藩の漁民たちが沖合で欧米の捕鯨船人と物々交換を行い300人余りが取り調べを受けるという大津浜事件が起こっている。また、異国船の出没に伴って海防問題も論じられるようになるが、鎖国体制を前提とする海防とナショナルな国防の混同が見られ、これも徳川支配体制を不安定化させる可能性があった。 そのような中で出されたのが文政8年(1825年)の異国船打払令である。これについては、西洋人と日本の民衆を遮断する意図を濃厚に持っていたと指摘されている。また、文政11年(1828年)には幕府天文方・書物奉行の高橋景保が資料と引き換えに禁制の地図をシーボルトに贈ったシーボルト事件が起こり、幕府に衝撃を与えており、天保3年から8年(1832年 - 1837年)にかけては天保の大飢饉が発生して十万人余が死亡し、一揆と打ち壊しが頻発した。特に天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱・生田万の乱は全国に衝撃を与えた。 また、対外関係は、19世紀初頭に紛争状態にあった北方ロシアと関係改善されるも、インド市場と中国市場を獲得したイギリス政府が日本市場を狙い台頭する状況から、イギリスの小笠原諸島占領計画、モリソン号渡来が蛮社の獄に影響し、これら内外の状況が為政者の不安と有識者の危機意識を掻き立てていた。ただし、これについては田中弘之は、当時のイギリスは清国との関係が急激に悪化しており、そのため日本人漂流民の送還もアメリカ商船モリソン号に委ねなければならなくなったと指摘している。小笠原諸島は清国との有事の際のイギリス商人の避難地およびイギリス海軍の小根拠地と考えられていたにすぎず、香港を獲得するとイギリスの占領計画も自然消滅しており、当時の幕府もイギリスの小笠原諸島占領に全く無関心であったとしている。モリソン号の来航を機に鎖国の撤廃を期待したのが高野長英・渡辺崋山らで、崋山は西洋を肯定的に紹介して「蘭学にして大施主」と噂されるほどの人物であった
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