対外膨張の思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/04 13:18 UTC 版)
本居宣長は寛政2年(1796年)に『馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん)』を刊行したが、中野等によればこの書名は「中国、朝鮮を西方の野蛮(戎)とみなし、これを万国に照臨する天照大御神の生国である我が国が「馭めならす」、すなわち統御すべきものとの立場による」という。内容も「日本中心主義と尊内外卑に立って」外交交渉の歴史を解説している。篤胤の弟子であった経世家の佐藤信淵は『宇内混同秘策』において「凡ソ他邦ヲ經略スルノ法ハ弱クシテ取リ易キ処ヨリ始ルヲ道トス今ニ當テ世界萬國ノ中ニ於テ皇國ヨリシテ攻取リ易キ土地ハ支那國ノ滿州ヨリ取リ易キハナシ」と述べ、出雲松江や長州萩、博多から朝鮮半島を攻撃するという具体案を提示している。さらに「武力によって満州、支那、台湾、フィリピンを攻め、南京に皇居を移し、全世界を全て皇国の郡県となす」と世界制覇を夢想している。吉田松陰は「朝鮮を責めて、質を納れ、貢を奉ずること古の盛時のごとくならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を示すべき」「国力を養ひて取り易き朝鮮、支那、満州を斬り従えん」と獄中から弟子たちに書き送り、弟子の桂小五郎は征韓論を唱え、秦郁彦はやがて明治初年にはこれが具体化し征韓論が台頭したと主張している。
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