対外貿易の転機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 03:22 UTC 版)
藤広は布教に熱心なカトリック系を排斥する一方で、貿易に熱心なプロテスタント系のオランダ人やイギリス人には朱印状を出して通商を許可していた。ロドリゲスに代わって家康に近侍したイギリス人のウィリアム・アダムス(後の三浦按針)の活躍もあり、肥前の平戸に慶長14年(1609年)にオランダ商館、慶長18年(1613年)にはイギリス商館が立ち貿易が活発化したが、その3年後には明朝以外の外国船の入港を長崎と平戸に限定したため、按針は江戸詰めができなくなり、平戸に没した。これが幕府の鎖国体制の端緒となる。なおイギリスはオランダとの対峙衝突が相次ぎ、アンボイナ事件前後から東南アジアから撤退してインドのムガル帝国経営へ向かい、1623年のアンボイナ事件をきっかけに商館も閉鎖、オランダは台湾を含めてアジア地域との香辛料貿易を独占支配した。
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