対外遠征と崩御
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:14 UTC 版)
「コンスタンティヌス1世」の記事における「対外遠征と崩御」の解説
330年代に入った頃、恐らくは側近である司教たちの影響を受けてコンスタンティヌス1世は宗教的な寛容さを失いつつあった。また、既に複数の正帝のうちの1人であった頃から、軍におけるキリスト教の普及や教会への支援に熱心であったが、関心の多くが信仰に関する事柄に向けられるようになった晩年には宮廷のキリスト教化にも取り組んだ。官吏たちに対する演説をしばしば神の裁きについての話で締めくくり、数多くのキリスト教徒を新たにコメス(Comes、伯、総監)の身分に昇進させた。キリスト教信仰を告白することが皇帝の歓心を買う有効な手段であることは誰の目にも明らかとなり、いくつもの都市や村落がキリスト教への帰依を明らかにすることで皇帝からの恩寵を得た。上流階級においても出世のために改宗する者が幾人も出てコンスタンティヌス1世のキリスト教徒に対する気前の良い分配の恩恵に預かった。このような風潮については教会史家エウセビオスすら批判的な見解を述べている。 内政面においては333年に息子のコンスタンス1世を、335年に甥のダルマティウス(英語版)を副帝に任命した。ミネルウィナとの間の息子で殺害されたクリスプスを除き、既に副帝であったファウスタとの間の息子コンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンス1世の3名にダルマティウスを合わせて4人の副帝を擁する体制となった。これは恐らく帝位継承の準備であったであろう。コンスタンティヌス2世がアジア・エジプトを、コンスタンティウス2世がガリアを、コンスタンス1世がイタリア・アフリカ・パンノニアを、ダルマティウスがトラキア・マケドニア・ダキア(ドナウ川流域)を、それぞれ分割して担当した。コンスタンティヌス1世がこのような処置をとったことは、結局のところ広大かつ複雑化したローマ帝国の統治が1人で担当可能なものでは無かったことを示している。 対外的には統一後もコンスタンティヌス1世は熱心に軍事遠征を繰り返していた。328年に息子コンスタンティウス2世と共にライン川方面でアレマン人と戦って勝利を収め、332年にはドナウ川でゴート人を降伏させた。334年にはダキア方面でサルマタイを破った。東方ではアルメニア王ティグラネス5世がサーサーン朝のシャープール2世によって廃立され同国が占領されたことをきっかけにサーサーン朝との関係が悪化した。アルメニアの親ローマ派がアルメニアをローマ帝国に献上することを申し出たことを受けて、コンスタンティヌス1世は甥のハンニバリアヌスをアルメニア王とした。この処置は将来のローマ帝国とサーサーン朝の戦争の原因となったが、実際に戦端が開かれるのはコンスタンティヌス1世崩御後のこととなる。コンスタンティヌス1世の統治最後の3年間はサーサーン朝への遠征の準備に費やされ、ペルシア人をキリスト教に転向させ、また彼がキリストと同じようにヨルダン川で洗礼を受ける計画が立てられた。しかし337年の復活祭の直後、コンスタンティヌス1世は体調を崩して倒れ、この計画を実行に移すことは不可能となった。神学者ヒエロニムスが伝えるところによると、死期を悟ったコンスタンティヌス1世は崩御する少し前に洗礼を受けた。当時の風習では、年を取るか死の間際になってから洗礼を受けるのが一般的だった。そして同年の聖霊降臨祭の日(5月22日)にニコメディア近郊のアンキュロナの離宮で崩御した。 コンスタンティヌス1世の遺体は紫衣に包まれた金棺に納められてコンスタンティノープルに運ばれ、高官たちの礼拝を受けた後に諸使徒聖堂に安置された。伝統的なローマの葬儀ではなくキリスト教の作法による葬儀が行われ、キリストの12人の使徒たちの石棺(遺体は安置されていないハリボテであったが)の中央に13番目としてコンスタンティヌス1世の棺が安置された。これは彼のキリスト教信仰を明白に示すものであり、その業績とキリスト教公認とによって死後も「大帝」の贈り名とともに記憶され、また「使徒に等しき者(亜使徒)」として列聖された。ローマ市は皇帝が埋葬地としてローマではなく新たな都コンスタンティノープルを選んだことに反発した。そしてコンスタンティヌス1世がキリスト教徒であることが周知であるにもかかわらず、ローマの元老院はそれまでの皇帝と同じように彼自身にローマの神々の一員たる名誉を与えた。
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