鎖国下のロシア船来航と忍者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 02:12 UTC 版)
「忍者とロシアの関係」の記事における「鎖国下のロシア船来航と忍者」の解説
現在の青森県に位置する弘前藩では、17世紀から明治3年にかけて『早道之者』という忍びの集団が存在していた。早道之者は関ヶ原の戦いの際弘前藩にかくまわれた石田三成の次男重成の息子である杉山吉成がその成立に関わっていたとされる。シャクシャインの戦いにおいて侍大将として諜報活動に従事したのを端緒とし、吉成の死後津軽信政が甲賀から中川小隼人という忍者を雇い入れたことで早道之者は発足した。当初の任務はアイヌ民族の動向の監視が主であったが、ロシアが蝦夷地に来航を始めるとそれに対する警備のため早道之者が動員された。幕末には60名の忍びが弘前藩に仕えていたことを記す名簿も残されている。 1807年の文化露寇の際に、伊賀組同心の平山行蔵は罪人で構成された軍を蝦夷地に派遣するという策を幕府に上申しているが、これはその性質上盗賊と関連のある忍者集団の再興を意味するとの意見もある。ただし、この策は幕府に受け入れられることはなかった。 また、蝦夷地探検で知られ、のちに隠密としても活動した間宮林蔵は、文化露寇やゴローニン事件に関わりがあった。しかし厳密には隠密と忍者は異なるものである。
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