鎖国と国際関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:15 UTC 版)
鎖国政策に関しては、宣教師を工作員とした欧州各国の内政干渉と植民地化を予防し、日本の独立主権を保持することが本来の目的であるという、政策面から国の将来を考えて行なったとする肯定的な評価もある。宣教師を通じた文化的侵略に対抗する意味では、それなりの効果はあったと考えられる。 家光が単に外国嫌いだったとする説もあるが、前述の通り政策については重臣の意向も色濃く反映されており、家光の個人的志向に還元するには少々難がある。 キリシタンに対しては非常に苛烈な弾圧政策を推進した。家光自ら率先して迫害を展開し、全国規模での大虐殺が行なわれた。一例としては寛永元年4月27日に男5人女7人のキリシタンが火刑に処され、12月1日には子供を含む13人が水磔で処刑。また家臣の中川某は一旦棄教したが、信仰を再開したため鋸挽きにされた。寛永13年、城門の修理工事を視察した家光は城外にいた93人の乞食を発見し、彼らがキリシタンであることを知るとただちに捕らえ、密室に追い込んで餓死させた(なお、彼らがキリシタンである根拠は明示されておらず、単に城の近くにいた乞食を汚い生き物とみなして害虫を駆除するような感覚で虐殺したのではないかと見る向きもある)。天正遣欧少年使節の中浦ジュリアンも寛永10年、穴釣りの刑により処刑されている。
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