鎖国と蘭学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 18:54 UTC 版)
17世紀(1600年代)には、16世紀から交易・布教を行っていたポルトガル・スペインに加えて、イングランド・オランダも日本との貿易に参入した。また、中国人との出会貿易を行うために東南アジアへ渡航する日本人に対して、江戸幕府は朱印状を発行して保護した。 しかし、幕府はカトリックの禁教と国際紛争の回避を目的として、貿易の管理と統制を強化し、1610年代にはヨーロッパ人の寄港地を長崎・平戸に指定し、1620年代にはスペインとイングランドとの関係を断絶した。1630年代には、長崎奉行への職務規定(鎖国令)によって朱印船貿易を廃止し、島原の乱の後、ポルトガルとの関係を断ち、オランダ人を長崎の出島に隔離した。和辻哲郎は、鎖国に加え林羅山に代表される儒教的な文教政策のために、次第に日本人の創造活動が萎縮していったと見ている。 このような状況の下で海外との文化交流は制限されたが、徳川吉宗は新暦作成のため漢訳洋書の禁をゆるめる。青木昆陽らにオランダ語学習を命じ、新井白石から青木、前野良沢へと続く蘭学が始まる。医学では、抽象的な議論にはしる李朱医学(後世方)に対し、後藤艮山、香川修庵らが経験・実証的な古医方をはじめる。 蘭学では前野・杉田玄白らの『解体新書』のほか、理学では『天地二球用法』で太陽中心説を紹介する本木良永、『暦象新書』で力学・数学を論じた志筑忠雄などがおり、識者の間に太陽中心説が広まる。本草学では松岡恕庵、『本草綱目啓蒙』の小野蘭山などがいる。平賀源内は「エレキテル」で有名な電気学の他、様々な分野で活躍した。橋本宗吉が本格的な電気の研究を行う。暦では麻田剛立とその弟子、高橋至時、間重富が寛政暦を完成させる。その後幕府の天文方で至時の子、景保・景佑が天保暦を作成する。 1823年にシーボルトが来日し、高野長英ら多くの弟子に医学や生物学を伝える。その他、医学分野で緒方洪庵、華岡青洲がいる。理学では宇田川榕菴の『菩多尼訶経』、『舎密開宗』、青地林宗の『気海観瀾』、広瀬元恭の『理学提要』、帆足万里の『究理通』などがある。伊藤圭介は『泰西本草名疏』でリンネの分類法を伝えた。
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