諸外国との外交
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「ピウス5世 (ローマ教皇)」の記事における「諸外国との外交」の解説
教皇はドイツ諸侯との争いに危機感を覚えていたが、特にアウクスブルクの帝国議会(1566年3月26日)における論争に教皇権の危機を察知し、その影響力を制限しようと企てた。一方、フランスでは教皇の影響力はより大きなものであった。教皇の指図によってオデット枢機卿と7人の司教が解任され、プロテスタントに対して寛容な勅令が廃棄された。結果としてこのフランスにおける教皇権威の行使がサン・バルテルミの虐殺を引き起こす一因ともなる。 また、イングランド王エリザベス1世に対しては、政敵のメアリーの擁護をうたった回勅『エクス・トゥルピッシマ・ムリエブリス・リビディニス・セルヴィトゥーテ』を発布するだけでなく、露骨に敵意を示しており、1570年4月27日の回勅『レグナンス・イン・エクスケルシス』で破門し、家臣の忠誠の誓いを解いている。しかし、この回勅は同時代において何ら現実的な意味を持つものではなく、歴史上、教皇による世俗王侯への最後の破門となった。 前教皇を支援していたフィレンツェ公コジモ1世との関与も外国との関係が悪化する原因になった。公爵より格上の称号を狙っていたコジモ1世は前教皇に引き続いてピウス5世にも接近して金策に協力、異端者にされていた所を匿っていたピエトロ・カルネセッキ(英語版)を1566年に教皇へ引き渡し(カルネセッキは翌1567年にローマで処刑)、フランスのユグノー戦争でカトリック陣営を支援するなど教皇の歓心を得ることに腐心した。ピウス5世もそれに応じて1569年8月24日、1562年の聖ステファノ騎士団(英語版)創設、カルネセッキの身柄引き渡し、ユグノー戦争のカトリック支援などの功績により、コジモ1世へカトリック信仰の擁護者としてトスカーナ大公の称号を授与、1570年3月5日にローマを訪れたコジモ1世に対して大公冠を授ける戴冠式を挙行した。これら一連の出来事に対して神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世と従兄のスペイン王フェリペ2世、イタリア諸侯の多くは大公位授与に反対、トスカーナ大公位が皇帝とスペイン王に追認されるのはピウス5世とコジモ1世の死後の1576年までかかった。 ピウス5世は当時勃興しつつあったオスマン帝国に対して神聖同盟を結成させることに成功し、オスマン帝国に大勝利した1571年10月7日のレパントの海戦の神聖同盟艦隊には、マーカントニオ・コロンナの指揮する教皇庁艦隊を派遣していた(なおこのときの神聖同盟には、教皇がエリザベス1世と対立していたため、イングランドの参戦はなく、プロテスタント諸国の参戦もなかった。キリスト教徒全体の結束はなく、カトリック世界のみの団結となった)。また、トリエント公会議の方針に沿って国際的な司教会議を行わせている。それはアルフォンソ・カラファ枢機卿(教皇は審議の後でカラファ一族を復権していた)の元で行われたナポリ会議、ボッロメーオ枢機卿の元で行われたミラノ会議、そしてマキム会議の3つである。 1572年5月1日、68歳で死去。遺体は初めサン・ピエトロ大聖堂に埋葬されたが、1588年にシクストゥス5世によりサン・ピエトロ大聖堂からサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂へ移葬された。1672年に列福、1712年5月24日、教皇クレメンス11世によって列聖された。
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