モデルとなったサイとは? わかりやすく解説

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モデルとなったサイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 18:19 UTC 版)

犀 (木版画)」の記事における「モデルとなったサイ」の解説

1514年初頭ポルトガル領インド総督アフォンソ・デ・アルブケルケは、グジャラート・スルターン朝統治者だったムザッファル・シャー2世に同王国ディーウ島要塞建設許可求め使者送った最終的にこの建設要求却下されたのだが、交渉時に外交儀礼として互いに交わした贈答品一頭インドサイ含まれていた。当時実力者たちには、諸外国との外交手段として動物園飼育されるような珍しい動物贈りあう慣習があり、1515年5月20日極東からリスボン到着したのは、このときのインドサイである。 ムザッファル・シャー2世から贈られたこのサイはもともと飼育されいたもので、人間によく馴れた個体だった。デ・アルブケルケはガンダganda)と名づけられていたこのサイインド人飼育係のオケムとを、ポルトガル王マヌエル1世への贈物とすることとする1515年1月ゴアからインドサイ積んだ輸送船船出し当時ポルトガルの植民地だった北アフリカフォゴ島 (現カーボベルデ共和国)の、ノッサ・セニョーラ・ダ・アジューダ (Nossa Senhora da Ajuda)を経由する航路をとった。フランシスコ・ペレイラ・コウティーニョを船長とするこの輸送船は、異国の香辛料を満載した2隻の僚船とともにインド洋横断喜望峰回って大西洋を北に向かっており、航海途中モザンビークセントヘレナアゾレス諸島寄港している。 120日間という比較的短い航海の後サイポルトガル到着する当時建築中だったマヌエル様式ベレンの塔のすぐ近くであった。後にベレンの塔にはサイの頭を象ったガーゴイルが、コーベル軒下飾り)として設置されている。サイローマ時代以降ヨーロッパでは見ることができなかった。このことはサイ神秘性与えることとなり、ときに神話上の動物みなされたり、動物寓意譚では想像上の動物であるモノケロスユニコーン)と同一視されたりもしていた。こういった理由により、生きたサイ実物ヨーロッパもたらされたことは大騒動巻き起こしたルネサンス精神では、サイ古代ギリシア・ローマ一部であり、古代彫刻碑文などと同様に古典古代の復興といえるのだったサイ学者好奇心満ちた人々によって観察され、この幻想的な生物について記述した書簡ヨーロッパ中に送られた。このサイ表した最初期画像は、ヴェネツィア人医師のジョヴァンニ・ジャコモ・ペンニ(en:Giovanni Giacomo Penni)によるものである。これは1515年7月ローマで出版され詩集挿画で、サイリスボン到着してから8週間足らずで出版された。この挿画現存する唯一の模写が、セビリアのコロンビナ図書館所蔵されている。 サイリスボンリベイラ宮殿にあったマヌエル王の野獣園(en:Menagerie)に収容された。ここはマヌエル王が他に所有していた、ゾウなどの大型収容されていたエスタウス宮殿とは離れた場所であったマヌエルはその年の三位一体主日Trinity Sunday)である7月3日に、このサイ自身所有していた若いゾウとの戦い企画する。これはゾウサイ互いに天敵であるという、古代ローマ博物学者大プリニウスの記述確かめることを目的としていた。サイは敵に対してゆっくりと慎重に近づいていったが、ゾウはこの催し見物する騒々しい観客におびえ、一合も交わすことなくその場逃げ出したマヌエルはこのサイメディチ家出身教皇レオ10世への贈答品とすることを決めた1498年ヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰経由でのインドへの航路「発見」して以来ポルトガル海軍展開していた極東における植民地化占有権継続ローマ・カトリック教会認めさせるために、マヌエル教皇機嫌をとる必要があったのであるこの前年にもマヌエルは白いインドゾウレオ10世贈っており、教皇自身で「ハノHanno)」と名づけたこのゾウに非常に満足していたという経緯もあった。1515年12月に、花で飾られ新しグリーンビロード首輪つけられサイは、銀食器貴重な香辛料などとともにテージョ川からローマへ向けて航海出た1516年初めに船がフランスの港マルセイユ近く通過したときに、プロヴァンス郊外サン=マクシマン=ラ=サント=ボームen:Saint-Maximin-la-Sainte-Baume)から帰還していたフランス王フランソワ1世は、このサイ見物したい要望した。このため船はマルセイユ沖のイフ島寄港しフランソワ1世見物できるように、1516年1月24日サイ短時間この島に上陸したというエピソードがある。 航海再開した後、リグリア海沿岸ラ・スペツィアの北にあるポルトヴェーネレ海峡通過する際に、船は突然の嵐に遭遇し難破する。このときサイ暴れたりないようデッキに鎖で縛り付けられていたため、泳ぐことができずに溺死してしまう。サイ死骸ヴィルフランシュ=シュル=メール近く収容されその後リスボン返されサイ毛皮剥製となった毛皮標本1516年2月ローマへ送られ中に詰めて展示されていたとする記録もあるが、16世紀剥製作成技術からすると信憑性疑問が残るリスボン生きたサイ大きな評判呼んだのとは対照的にローマではほとんど話題にならなかったが、当時画家ジョヴァンニ・ダ・ウディーネen:Giovanni da Udine)やラファエロ・サンティ絵画残している。 サイ剥製その後うなったのかは不明である。その後ローマにあったとすればメディチ家によってフィレンツェへ持ち去られたのかも知れず1527年ローマ略奪失われたかも知れない1996年イギリス作家ローレンス・ノーフォークが、このサイをもとにして『教皇サイ(The Pope's Rhinoceros)』という小説書いている。

※この「モデルとなったサイ」の解説は、「犀 (木版画)」の解説の一部です。
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