フィレンツェへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/14 03:46 UTC 版)
「ペトルス・ダミアニ」の記事における「フィレンツェへ」の解説
1063年に、アレクサンデル2世はローマで教会会議を開き、ペトルスはクリュニー修道院とマコンの司教達の間で起こった論争を解決する使節に任命された。ペトルスはフランスに到着すると、シャロン=シュル=ソーヌ(Chalon-sur-Saône)に教会会議を召集し、クリュニー側の主張を認め、フランスの教会で争われていたその他の問題も解決して、秋にフォンテ・アヴェッラーナに帰還した。ペトルスがフランスに滞在している間、対立教皇ホノリウス2世はローマを占領しようと活発な動きを示したが、ペトルスはこれを抑えるためにもう一度神聖ローマ皇帝の助力を仰ごうとして、ヒルデブランドやアレクサンデル2世の叱責を受けた。 1067年に、ペトルスは司教とヴァッロンブローザ修道院の修道士の間での論争を解決するためにフィレンツェに派遣された。司教は修道士たちによって聖職売買をしたと訴えられていた。しかしペトルスは事実関係の判断を誤り、司教の側を支持したので、この仕事は結局失敗に終わった。この問題は翌年に教皇自身によって裁定が下されるまで解決しなかった。
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