フィレンツェと『空想談話』
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「ウォルター・サヴェージ・ランダー」の記事における「フィレンツェと『空想談話』」の解説
ランダー夫妻はコモに居を構え、そこに3年とどまった。ここでも彼はトラブルを抱え、このときは後にイギリス国王に即位するジョージ4世の妃キャロライン・オブ・ブランズウィックから、離婚訴訟になったときの夫側のスパイではないかとの疑いをかけられた。1818年、ランダーは、イタリアでは英国と異なりラテン語による書物についても名誉毀損法が適用されるとも知らずに、英国を非難したイタリアのある詩人に宛てたラテン詩の中で当局を批判した。イタリア国王の代理人を脅したとして、コモから離れるよう命じられてもいる。9月、彼はジェノヴァとピサに赴いた。フィレンツェに落ち着いたのは1821年のことであった。メディチ・リッカルディ宮殿(英語版)のアパートメントに2年間住んだ後、妻子を伴ってカスティリオーネの邸宅に居を移した。この時期こそ、彼の作家生活における最も重要な時期であり、彼の代表作である『空想談話』もこの時期に発表されている。 当時フィレンツェに居住していたマルグリット・ガーディナー(英語版)とその夫チャールズ(英語版)と親友になったのもこのときである。 『空想談話』の最初の2巻が発表されたのは1824年、その第2版が出たのが1826年、1828年には第3巻、1829年には第4巻と第5巻が発表された。以後、1846年に彼の作品選集の第2巻が出るまで、特に新しい巻は加わっていない。多くの空想上の討論で、権威主義的なルールが厳しく批判され、共和主義的思想が称揚されている。 この著作により、ランダーは高くはあるが広くはない文学的名声を獲得した。彼はフィレンツェの当局とさまざまな問題を抱えていた。銀器の盗難事件で警官との諍いに巻き込まれ、警官が小売商に尋問した結果、彼は「危険人物」とされ、その当然の帰結として、大公からフィレンツェからの追放を言い渡されることになった。後に大公は態度を軟化させ、当局者たちはランダーがフィレンツェに居住することを忌んでいたものの、居住する権利を主張するランダーの言い分を無視するにとどめた。1829年、ランダーはデンビーシャー郡スランベドルホールのジョゼフ・アブレットから金を借りて、フィエーゾレにあるゲラルデスカ邸宅を購入した。ここで彼は水利権をめぐって隣人と紛争になり、英国の領事カーカップが名誉という点では満足いくように取り計らったものの、訴訟沙汰になった。この邸宅にウィリアム・ヘイズリットとリー・ハント(英語版)の訪問を受け、チャールズ・アーミテージ・ブラウン(英語版)とは特に親密な交友を温めた。 エドワード・ジョン・トレローニー(英語版)と知り合いになったのもこのときであり、『空想談話』第4巻でトレローニーが取り上げられている。常に心のこもった便りを欠かさなかった母が1829年10月に亡くなり、ルージリーにいた従兄弟であるウォルター・ランダーがウェールズの不動産の管理を引き継ぐことになった。ランダーは、この邸宅で数年間は執筆活動をしたり、溺愛する子供らと遊んでやったり、庭いじりをしたりと幸福に暮らした。来客が多かったが、特筆すべきは、1829年、未亡人になっていたジェーン・スイフト(アイアンシー)であり、再び彼が詩を書くきっかけとなった。後にヘンリー・クラブ・ロビンソン(英語版)もやってきて、彼とはたいへん良好な仲となった。1831年には『ゲビア』、『ジュリアン伯爵』とその他の詩(アイアンシーを歌ったものは31編)を収録した詩集を発表した。この詩集はたった40部しか売れなかったが、ランダー自身は『イタリア生活のあれこれ』(High and Low Life in Italy)に取り組んでいたので気にもとめなかった。その本も、出版を依頼するためにクラブ・ロビンソンに送ったものの、出版社との関係で問題を抱えたこともあって1837年になるまで日の目を見なかった。 1832年、アブレットの説得に応じて英国を訪問し、多くの旧友と再会した。 ブライトンではアイアンシーに会い、ロバート・ローリー(英語版)とも対面した。スタッフォードシャーの家族も訪ねた。弟チャールズはコルトン(英語版)の司祭となっており、ルージリーの従兄弟ウォルター・ランダーはスランソニーの不動産の運営に手を焼いていた。エンフィールドではチャールズ・ラムのもとに赴き、ハイゲートにサミュエル・テイラー・コールリッジを、ケンブリッジにジュリアス・ハレを訪ねた。アブレットとともに湖水地方に行き、サウジーとコールリッジに会った。 フィエーゾレに戻った際、彼は自分の子どもたちの面倒を見きれなくなっていたので、ドイツ人家庭教師を雇うことにした。イタリアでは、後にランダーについて記した作品を著したリチャード・モンクトン・ミルンズ(英語版)に会っている。 ラルフ・ワルド・エマーソンの訪問を受け、『シェイクスピアの鹿泥棒審問』(Shakespeare's Examinations for Deer Stealing)、『ペリクレスとアスパシア』(Pericles and Aspasia)、『五日物語』(Pentameron)につながる談話の執筆に取り組んだ。ブレシントン夫人は、彼のために「シェイクスピア」を売った。1835年にはアイアンシーが再訪、自身の半血の姉妹ペインター夫人を連れてきた。ランダーの妻ジュリアは、自分にも若いツバメがいたにもかかわらず嫉妬し、これが完全な別居につながることになった。
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