フィレンツェ公会議に対する対応とは? わかりやすく解説

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フィレンツェ公会議に対する対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:55 UTC 版)

ロシア正教会の歴史」の記事における「フィレンツェ公会議に対する対応」の解説

1439年フィリオクェ問題はじめとする教義違い争点となったものの、フィレンツェ公会議カトリック教会と、正教会指導者であるコンスタンティノープル総主教および東ローマ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴスとの間で、教会分裂再統合合意なされた。しかし、コンスタンティノープル市民や大貴族(ルカス・ノタラス大公がその筆頭)も含めた東ローマ帝国正教信者達から東西教会合同決議対す猛反発起こり結局東西教会合同実現できなかった。背景には第4回十字軍決定的となった西方教会感情があるとみられる。 この時、ロシア正教信者同様に猛反発起こしロシア正教会代表として公会議出席し再統合賛成したギリシャ人モスクワ府主教イシドールギリシャ語名イシドロス。在任1436-1441年)は、モスクワ帰任するとモスクワ大公ヴァシーリー2世によって直ち捕らえられ府主教職を解かれ追放された。西方教会諸国から軍事的圧迫を受け続けてきたという点では東ローマ帝国ルーシ同様だったのであり、反西方教会感情広く正教会諸国共有されていた事実示されている。 イシドールローマ逃れローマ・カトリック教会枢機卿就任した。のちに、実際管轄伴っておらずあくまで名誉的・名義上のものであったが、コンスタンティノープル総大司教キプロス大司教にも任じられる当時東ローマ帝国オスマン帝国によって滅亡寸前にまで追い込まていたために西欧救援求めて東西教会統合進めたが、当時モスクワ大公国にとってそのような妥協をする必要はなかったのであり、民衆レベルだけでなくモスクワ大公という世俗君主までもが実力行使に出るほどにまで、対応がより先鋭的になる事情があったと言えよう。

※この「フィレンツェ公会議に対する対応」の解説は、「ロシア正教会の歴史」の解説の一部です。
「フィレンツェ公会議に対する対応」を含む「ロシア正教会の歴史」の記事については、「ロシア正教会の歴史」の概要を参照ください。

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