フィレンツェ 1401年
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「ルネサンス期のイタリア絵画」の記事における「フィレンツェ 1401年」の解説
フィレンツェで最初のルネサンス美術と呼べる作品が制作されたのは1401年 (Quattrocento ) のことである。1401年に、現在フィレンツェに残る最古の教会建築物であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂サン・ジョヴァンニ洗礼堂の青銅扉制作のコンペが実施された。サン・ジョヴァンニ洗礼堂は、ロマネスク様式でデザインされた八角形の巨大な建物で、その起源はローマ時代にまで遡ると考えられており、フィレンツェの守護神マルスに捧げられた神殿だと信じられていた。洗礼堂内部は、13世紀の芸術家コッポ・ディマルコヴァルド (en:Coppo di Marcovaldo) がデザインしたとされる、多数のモザイク画で装飾されている。洗礼堂には、北、南、東にそれぞれ入り口があり、そのうち南側の扉には1330年から1336年にかけてアンドレア・ピサーノが制作した、洗礼者ヨハネの生涯を物語式に表現した作品など、四つ葉飾りをあしらった28枚の青銅彫刻で装飾されていた。 1401年にコンペが実施されたのは北側の扉で、7人の若い芸術家が青銅パネルに「イサクの犠牲」をデザインしてこのコンペに参加した。このときの青銅パネルのうち、ロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネレスキのものが現存しており、どちらの作品にも当時の芸術、哲学で潮流を見せ始めていた古典主義を強く意識したモチーフをみることができる。ギベルディはイサクを、古代ローマ美術でよく用いられていたアカンサス文様で装飾された墓にひざまずいている裸体像として、古代ギリシア・ローマ時代の作風の彫刻で表現した。一方のブルネレスキは、イサクの犠牲の情景に、当時よく知られていた古代ローマのブロンズ像である、脚からとげを抜く少年を連想させる人物を配している。このブルネレスキの試みは非常に野心的なもので、ギベルディの作品よりも優雅さに欠けるとはいえ、より緊迫した情景を描き出しているといえる。 このコンペに勝利したのはギベルディだった。最終的な扉の彫刻完成には27年の歳月を要し、ギベルディは引き続きもう一つの扉の制作も依頼された。ギベルディはサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉の制作に計50年携わり、この作業がフィレンツェの芸術家たちに格好の勉強の機会を与えた。作品に物語性をもたらすこと、造形を追求する技術だけではなく作品に奥行きを与える初期の遠近法の技術など、ギベルディの手によるサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉は、当時のフィレンツェ美術の発展に大きく寄与したのである。後年ミケランジェロがこの扉を「天国への扉」として絶賛している。
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