フィレンツェ 1401年とは? わかりやすく解説

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フィレンツェ 1401年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 15:46 UTC 版)

ルネサンス期のイタリア絵画」の記事における「フィレンツェ 1401年」の解説

フィレンツェ最初ルネサンス美術呼べ作品制作されたのは1401年 (Quattrocento ) のことである。1401年に、現在フィレンツェに残る最古教会建築物であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂サン・ジョヴァンニ洗礼堂青銅制作コンペ実施された。サン・ジョヴァンニ洗礼堂は、ロマネスク様式デザインされ八角形巨大な建物で、その起源ローマ時代にまで遡る考えられており、フィレンツェ守護神マルス捧げられ神殿だと信じられていた。洗礼堂内部は、13世紀芸術家コッポ・ディマルコヴァルド (en:Coppo di Marcovaldo) がデザインしたとされる多数モザイク画装飾されている。洗礼堂には、北、南、東にそれぞれ入り口があり、そのうち南側の扉には1330年から1336年にかけてアンドレア・ピサーノ制作した洗礼者ヨハネの生涯物語式に表現した作品など四つ葉飾りあしらった28青銅彫刻装飾されていた。 1401年コンペ実施されたのは北側の扉で、7人の若い芸術家青銅パネルに「イサクの犠牲」をデザインしてこのコンペ参加した。このときの青銅パネルのうち、ロレンツォ・ギベルティフィリッポ・ブルネレスキのものが現存しており、どちらの作品にも当時芸術哲学潮流見せ始めていた古典主義強く意識したモチーフをみることができる。ギベルディはイサクを、古代ローマ美術でよく用いられていたアカンサス文様装飾された墓にひざまずいている裸体像として、古代ギリシア・ローマ時代作風彫刻表現した一方ブルネレスキは、イサクの犠牲情景に、当時よく知られていた古代ローマブロンズ像である、脚からとげを抜く少年連想させる人物配している。このブルネレスキ試みは非常に野心的なもので、ギベルディの作品よりも優雅さ欠けとはいえ、より緊迫した情景描き出しているといえる。 このコンペ勝利したのはギベルディだった。最終的な扉の彫刻完成には27年歳月要し、ギベルディは引き続きもう一つの扉の制作依頼された。ギベルディはサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉の制作に計50年携わり、この作業フィレンツェ芸術家たちに格好勉強機会与えた作品物語性もたらすこと、造形追求する技術だけではなく作品奥行き与え初期遠近法技術など、ギベルディの手によるサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉は、当時フィレンツェ美術発展大きく寄与したのである後年ミケランジェロがこの扉を「天国への扉」として絶賛している。

※この「フィレンツェ 1401年」の解説は、「ルネサンス期のイタリア絵画」の解説の一部です。
「フィレンツェ 1401年」を含む「ルネサンス期のイタリア絵画」の記事については、「ルネサンス期のイタリア絵画」の概要を参照ください。

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