1400年 - 1499年とは? わかりやすく解説

1400年 - 1499年

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イタリア・ルネサンス年表」の記事における「1400年 - 1499年」の解説

1400年代クアトロチェント Quattrocento):フィレンツェ経済力背景文芸美術など各分野人材輩出しルネサンス文化栄える。東ローマ帝国知識人もたらしたギリシャ語文献印刷術発明から大きな刺激を受ける。 1400年頃 - チェンニーノ・チェンニーニ『絵画術の書』。 1401年 - フィレンツェ大聖堂洗礼堂の扉の設計競技ロレンツォ・ギベルティ当選1401年 - ジョヴァンニ・ドミニチ『家政指針』。 1401年頃 - 【ボヘミア】ヨハネス・フォン・テープル『ボヘミア農夫農夫と死)』。 1402年 - ミラノ公ジャン・ガレアッツォ急逝ミラノによる北イタリア統一挫折ミラノ公位は息子ジョヴァンニ・マリーアが継承するが、公国求心力失い弱体化1402年頃 - ピエル・パオロ・ヴェルジェーリオ『若者高貴な振る舞い自由教育について』。 1403年 - ヴェネツィア世界初検疫のための隔離施設「ラザレット・ヴェッキオ」が設置される1403年 - 教皇ベネディクトゥス13世アヴィニョンから逃亡しルイ2世・ダンジュー庇護される(→1398年)。 1404年 - 【フランスヴェネツィア出身女流詩人クリスティーヌ・ド・ピザンによる『薔薇のことば』。 1404年 - 【ブルゴーニュクラウス・スリューテルモーセ井戸完成1395年 - )。 1405年 - ヴェネツィアヴェローナパドヴァ占領しヴェネト地方覇権を握る1405年頃 - ロレンツォ・モナコエジプトへの逃避」。 1405年頃 - 【フランス百年戦争記録した『年代記』作者ジャン・フロワサール死去1406年 - フィレンツェピサ占領しトスカーナ地方覇権を握る1407年 - ジェノヴァサン・ジョルジョ銀行設立1408年 - ヴェネツィアハンガリー王国からダルマチア奪取する1408年 - ナポリ王ラディズラーオ1世ローマ占領(→1413年)。 1409年 - ピサ教会会議開催教会大分裂終結せず、三教皇の鼎立態となる。ローマ派の教皇グレゴリウス12世アヴィニョン派の教皇ベネディクトゥス13世ピサ派の教皇アレクサンデル5世1409年 - ドナテッロダビデ像」(バルジェロ美術館大理石製)完成(→1446年)。 1409年 - 【ドイツライプツィヒ大学創建プラハ大学学長ヤン・フスらによるチェコ人優遇策抗議してプラハ大学去ったドイツ人による設立1409年 - 【フランドルランブール兄弟ベリー公のいとも豪華なる時祷書完成1410年 - ピサ派の教皇アレクサンデル5世死去枢機卿バルダッサレ・コッサがピサ派の教皇ヨハネス23世として選出される選出尽力したメディチ家ジョヴァンニ・ディ・ビッチローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、莫大な利益を得る。 1410年 - ピサ派の教皇ヨハネス23世ローマ制圧するためルイ2世・ダンジュー派遣する(→1411年)。ナポリ王ラディズラーオ1世彼の支持していたローマ派の教皇グレゴリウス12世ローマから逃亡1410年 - 枢機卿ピエール・ダイイ世界の姿(イマゴ・ムンディ)』。 1410年 - 「ダティーニ文書」と呼ばれる膨大な商業文書残したプラート商人フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニ死去1410年頃 - ゲラルド・スタルニーナにより「テーベ隠者たち」(ウフィツィ美術館)が描かれたか。 1410年頃 - 【ロシアアンドレイ・ルブリョフ聖三位一体至聖三者)」。 1411年 - ロッカセッカ戦いでナポリ王ラディズラーオ1世ルイ2世・ダンジュー撃退(→1413年)。 1411年 - ナポリ王ラディズラーオ1世がサンタンナ・ディ・ロンバルディ教会(サンタ・マリア・ディ・モンテオリヴェート教会)を建立1412年 - ミラノ公ジョヴァンニ・マリーアが暗殺される。弟フィリッポ・マリーアは公位を継承し旧領回復着手1412年 - 【アラゴンカスペの妥協により、トラスタマラ家フェルナンド1世アラゴン王になる。 1413年 - ナポリ王ラディズラーオ1世が再びローマ占領ピサ派の教皇ヨハネス23世フィレンツェ逃亡1414年 - コンスタンツ公会議開催( - 1418年)。会議主導したのは神聖ローマ皇帝ジギスムント神学者ではピエール・ダイイジャン・ジェルソン活躍1415年 - コンスタンツ公会議決定により、プラハ大学元学長ヤン・フス異端者として火刑処される(→1419年)。 1415年 - 【ポルトガル国王ジョアン1世その子エンリケ航海王子らが北アフリカセウタ攻略1416年 - サヴォイア公国成立しサヴォイア家アメデーオ8世支配下置かれる1417年 - コンスタンツ公会議で、コロンナ家出身マルティヌス5世教皇選出教会大分裂終わる。 1417年 - 人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニにより、ドイツ古代ローマ哲学者ルクレティウス事物の本性について』の写本発見される1418年 - フィレンツェ大聖堂ドーム設計競技フィリッポ・ブルネレスキ当選(→1436年)。 1418年 - 枢機卿ピエール・ダイイ教会改革論』。 1418年 - 【フランスパリ出版業者錬金術師とも言われニコラ・フラメル死去1419年 - フィレンツェにて廃位され対立教皇ヨハネス23世死去後年サン・ジョバンニ洗礼堂に「教皇ヨハネ23世墓碑」がドナテッロらによって作られる1425年-1428年)。 1419年 - ヤコポ・デッラ・クエルチャによるシエナカンポ広場喜びの泉(フォンテ・ガイア)」完成1414年 - )。 1419年 - 【ボヘミア第一次プラハ窓外投擲事件フス戦争始まる( - 1439年)。この戦争ヤン・ジシュカ率いフス派最新鋭マスケット銃使用ヨーロッパの手銃器使った戦争と言われる1420年 - 教皇マルティヌス5世初めローマ市入り荒廃したローマ市再建始まる(→1417年)。 1420年頃 - ミケリーノ・ダ・ベソッツォ聖カタリナの神秘の結婚」(シエナ絵画館1421年 - フィレンツェジェノヴァから海港リヴォルノ購入1423年 - ヴェネツィア元首としてフランチェスコ・フォスカリ選出され以後35年近く国政指導( - 1457年)。 1423年 - ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ東方三博士の礼拝」。 1424年 - ザゴナラの戦いでミラノフィレンツェ大勝フィレンツェヴェネツィア接近(→1427年)。 1424年 - 【フランスパリイノサン墓地回廊フレスコ壁画死の舞踏」が描かれる1425年 - フェラーラニッコロ3世・デステが、後妻パリシーナ・マラテスタ前妻息子ウーゴ・デステ両者姦通の罪で処刑1427年 - マクロディオの戦いで傭兵隊カルマニョーラ率いヴェネツィアミラノ大勝1427年 - マソリーノマサッチオブランカッチ礼拝堂壁画完成1428年 - マサッチオ死去1428年 - 【フランドルロベルト・カンピンメロードの祭壇画完成1425年 - )。 1429年 - メディチ家ジョヴァンニ・ディ・ビッチ死去後継者息子コジモ・デ・メディチ1429年 - マッテオ・パルミエーリ『市民生活論』執筆出版没後1528年)。 1430年 - ヴェネツィアテッサロニキ1423年 - )がオスマン帝国降伏しその領土となる。 1430年 - ヴェネツィアのコンタリーニ家の「カ・ドーロ黄金の館)」がボン父子によって完成する( - 1428年)。 1431年 - 教皇マルティヌス5世死去教皇エウゲニウス4世即位1431年 - バーゼル公会議開催(→1438年)。 1431年 - サン・ロマーノの戦いで、フィレンツェシエナ勝利する(→1456年)。 1431年 - ロレンツォ・ヴァッラ快楽論』(エピクロス主義)。 1431年 - 【フランスジャンヌ・ダルクルーアンにて火刑処される(→1455年)。 1432年 - ヴェネツィア共和国対す背信の罪でカルマニョーラ処刑される(→1427年)。 1432年 - 【フランドルファン・エイク兄弟ヘントの祭壇画神秘の子羊)」完成1433年 - フェラーラ和約により、ミラノとヴェネツィア・フィレンツェが講和する1423年 - )。ミラノブレシアベルガモヴェネツィア割譲フィレンツェではこの和約不満なメディチ派が勢いを増す。 1433年 - フィレンツェでアルビッツィ家を中心とする反メディチ派が政権握りコジモ・デ・メディチらを追放(→1434年)。 1433年 - マントヴァ侯爵領に昇格、ジャンフランチェスコ・ゴンザーガが僭主からマントヴァ侯になる。 1433年 - ピサネロ神聖ローマ皇帝ジギスムント肖像」。 1434年 - ミラノとの戦争大敗北を喫しリナルド・デリ・アルビッツィの政権崩壊、アルビッツィ一族逮捕されるヴェネツィア亡命していたコジモ・デ・メディチ帰国し反対派追放メディチ家フィレンツェ支配確立( - 1737年)。 1434年 - カルマニョーラ後継としてガッタメラータヴェネツィア軍の司令官抜擢される(→1432年)。 1434年 - 【フランドルヤン・ファン・エイクアルノルフィーニ夫妻の肖像」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)。モデルフィリップ善良公仕えたイタリア出身銀行家ジョヴァンニ・ディ・アリーゴ・アルノルフィーニとその婚約者ジョヴァンナ・チェナーミとされていたが、近年の研究でアリーゴ・アルノルフィーニの従兄弟ジョヴァンニ・ディ・ニコラ・アルノルフィーニとその内縁の2番目の妻、あるいは既に死去した最初の妻考えられている。 1435年 - ナポリ女王ジョヴァンナ2世死去ヴァロワ=アンジュー家ルネ・ダンジューアラゴン王アルフォンソ5世その後継をめぐって争う(→1442年)。 1435年 - アルベルティ『絵画論』執筆1436年 - 教皇エウゲニウス4世によるフィレンツェ大聖堂献堂式献堂式合わせフランドル楽派音楽家ギヨーム・デュファイが「薔薇花が咲く頃」を作曲1436年 - カマルドリ会のアンブロージョ・トラヴェルサーリが『ディオニシオス文書』を翻訳1436年 - フラ・アンジェリコフィエーゾレからフィレンツェサン・マルコ修道院に移る。この修道院で「受胎告知」「ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)」などの製作を行う。 1436年 - ウッチェロジョン・ホークウッド像」(フィレンツェ大聖堂内)(→1390年)。 1436年 - サセッタ東方三博士の旅」(メトロポリタン美術館完成1432年 - )。 1436年 - 【フランスフランボワイヤン様式ルーアンサン・マクルー教会着工( - 1521年)。 1437年 - バーゼル公会議開催移動決定(→1431年)。参加者公会議派と教皇派分裂し公会議派はバーゼル留まり1439年には対立教皇フェリクス5世選出ニコラウス・クザーヌス教皇派らはイタリアフェラーラ移転し東西教会合同準備を行う。 東ローマ皇帝ヨハネス8世パレオロゴスコンスタンティノポリス総主教ヨセフス2世イタリア到着。 他に東方教会代表者としてニカイア府主教ヨハンネス・ベッサリオンゲオルギオス・ゲミストス・プレトンらが出席1438年 - フェラーラ公会議開催(フェラーラ・フィレンツェ公会議)。ヴェローナ画家ピサネロ東ローマ皇帝ヨハネス8世来訪記念して皇帝肖像メダル作成フェラーラニッコロ3世・デステ公会議開催支援、やがて資金不足疫病流行行き詰まる(→1439年)。 1438年 - ルカ・デッラ・ロッビアフィレンツェ大聖堂の「カントリア(歌う見物人)」完成1438年 - 【フランス国王シャルル7世ブールジュ国本勅諚国事詔書)を発令ガリカニズム始まり(→1516年)。 1439年 - フェラーラでの公会議フィレンツェ移転(フェラーラ・フィレンツェ公会議)( - 1445年)。メディチ家公会議移転支援東西教会代表による合同教令「レテントゥル・チェリ」採択ギリシア人ベッサリオンイタリア残留カトリック枢機卿任じられる1440年 - アンギアーリの戦いで、フィレンツェミラノ勝利(→1503年)。 1440年 - ニコラウス・クザーヌス学識ある無知について』。 1440年 - ロレンツォ・ヴァッラコンスタンティヌス寄進状偽作論』。 1440年頃 - ヤコポ・ベリーニ寄進エステ家公子リオネッロのいる謙譲マリア」。 1441年 - ミラノ公ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ傭兵隊フランチェスコ・スフォルツァ結婚(→1450年)。 1441年 - 【ドイツ・ネーデルラント】トマス・ア・ケンピスキリストにならいて』。 1442年 - アラゴン王アルフォンソ5世ルネ・ダンジュー追放しナポリ王となる。シチリアの晩禱事件1282年以来分裂していたナポリ王国シチリア王国が一旦統一される1442年 - アエネアス・シルウィウス・ピッコローミニが桂冠詩人となる。ピッコローミニは人文主義者で後の教皇ピウス2世(→1458年)、この称号神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世進呈1443年頃 - 【フランスバーテルミー・デックエクスの受胎告知」。 1444年 - フィレンツェ市書記官長人文主義者レオナルド・ブルーニ死去代表作フィレンツェ人の歴史』)。 1444年 - ロレンツォ・ヴァッララテン語優雅さについて』。 1444年 - コジモ・デ・メディチにより、ニッコロ・ニッコリ蔵書基礎とした図書館サン・マルコ修道院創設される1444年 - ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチルクレツィア・トルナブオーニ結婚1444年 - フランシスコ会修道士シエナベルナルディーノ死去1450年列聖)。 1444年 - 【ブルガリアヴァルナの戦いで、キリスト教諸国軍がオスマン帝国軍大敗ヴァルナ十字軍)。教皇エウゲニウス4世特使枢機卿ジュリアーノ・チェザリーニハンガリーポーランドの王ヴワディスワフ3世らが戦死1444年 - 【スイスコンラート・ヴィッツ奇跡漁り」。 1445年 - ヴェネツィア元首フランチェスコ・フォスカリ息子ヤコポ贈収賄汚職告発される(→1457年)。 1445年 - ジョヴァンニ・ディ・パオロ天地創造と楽園追放」。 1445年頃 - ドメニコ・ヴェネツィアーノによるサンタ・ルチア・デ・マニョーリ祭壇画1446年 - サン・マルコ修道院長アントニーノ・ピエロッツィがフィレンツェ大司教となる(フィレンツェの聖アントニヌス)。 1446年 - ドナテッロダビデ像」(バルジェロ美術館ブロンズ製)完成1444年 - )。 1446年 - アントニオ・ヴィヴァリーニ三連祭壇画玉座聖母子聖者たち」。 1446年 - アルベルティリミニのマラテスティアーノ教会設計携わるリミニ領主シギスモンド・マラテスタによる依頼であったが、依頼主が死ぬ(1468年)と未完のまま放置される1447年 - 教皇エウゲニウス4世死去教皇ニコラウス5世即位1447年 - ミラノヴィスコンティ家断絶市民の蜂起でアンブロジアーナ共和国成立(→1450年)。 1447年 - ナポリベネディクト会修道院長アントーニオ・ダ・バールガ『人間の尊厳、および人間の生の優越について』。 1447年 - アレッソ・バルドヴィネッティ受胎告知」。 1448年 - 教皇ニコラウス5世バチカン図書館開設 1448年頃 - バルトロメオ・ファーチョ『人間優越卓越について』 1449年 - 教皇ニコラウス5世バーゼル公会議1431年 - )の閉会宣言同時に対立教皇フェリクス5世退位以後現在まで対立教皇存在しない1450年 - フランチェスコ・スフォルツァ共和国政府倒しミラノ公位を簒奪(→1447年)。 1450年頃 - 【フランスジャン・フーケフランス国王シャルル7世肖像」。 1450年頃 - 【フランス】アンドレ・ディープル「パリ高等法院キリスト磔刑」。 1450年頃 - 【フランドルロヒール・ファン・デル・ウェイデン聖母子を描く聖ルカ」。 1450年頃 - 【ドイツシュテファン・ロッホナー薔薇垣の聖母」。 1450年頃 - 【ドイツライン地方で『往生術(アルス・モリエンディ)』が出版される1451年 - ニコラウス・クザーヌス近視治療のための凹レンズ眼鏡発明1452年 - ローマにて神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世戴冠式結婚式。なお次代の皇帝ローマで戴冠式を行なわずこの伝統は途絶ローマで戴冠した皇帝フリードリヒ3世最後となる。 1452年 - ジャンノッツォ・マネッティ『人間の尊厳優越について』。 1453年 - ドナテッロガッタメラータ将軍騎馬像完成(→1434年)。 1453年 - 【東ローマ帝国コンスタンティノープルの陥落東ローマ帝国滅亡)。最後東ローマ皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴス戦死オスマン帝国スルタン・メフメト2世新し支配者となる。 ジェノヴァ傭兵隊長ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ・ロンゴや、ヴェネツィア人提督ガブリエレ・トレヴィザンが犠牲となる。 1453年 - 【イングランド・フランス】百年戦争終結1454年 - イタリア五大国ローディの和を結ぶ。スフォルツァ家ミラノ君主認められヴェネツィアはその領地アッダ川まで広げ両国講和成立アラゴン王アルフォンソ5世ナポリ王として最終的に認められ、これらの条件フィレンツェローマ同調五大国は対オスマン帝国戦でのイタリア神聖同盟1455年)を結成イタリア盛期ルネサンス時代迎える( - 1494年)。 1455年 - フランス国王シャルル7世宮廷御用商人だったジャック・クール脱獄しローマ亡命教皇ニコラウス5世と、続く教皇カリストゥス3世庇護され、対オスマン朝十字軍司令官となるが1456年戦死1455年 - 教皇カリストゥス3世ジャンヌ・ダルク裁判やり直し命じる(→1431年)。 1455年 - 【イングランド薔薇戦争始まる( - 1485年)。 1455年頃 - 【ドイツヨハネス・グーテンベルクによる活版印刷聖書刊行1455年頃 - 【フランス】アンゲラン・カルトン「ヴィルヌーブ・レ・ザヴィニョンのピエタ」。 1456年 - ヴェネツィア司教であったロレンツォ・ジュスティニアーニ死去1690年列聖)。 1456年 - ウッチェロサン・ロマーノの戦い」(→1431年)。 1456年 - アンドレア・デル・カスターニョ「ニッコロ・ダ・トレンティーノ騎馬像」。 1457年 - 息子汚職事件にからみフランチェスコ・フォスカリヴェネツィア元首辞職させられこの年死去1457年 - フィレンツェ銀行家ルカ・ピッティがピッティ宮殿建設着手ルカの死とともに1472年工事中断)。 1458年 - アエネアス・シルウィウス・ピッコローミニが教皇ピウス2世として選出される( - 1464年)。 1458年 - ニコラウス・クザーヌストスカネッリが「円積問題」について対談する。 1459年 - マントヴァ教会会議で、教皇ピウス2世オスマン帝国対す十字軍遠征提唱1459年 - 義兄弟関係にあるジョヴァンニ・ベリーニマンテーニャそれぞれ個別に「ゲッセマネの祈り」を描く。 1460年 - 【ギリシャモレアス専制公領オスマン帝国占領される。ここを支配していた東ローマ皇族で、皇帝コンスタンティヌス11世の弟トマス逃亡し1462年にイタリア・ローマに亡命1460年頃 - アントネロ・ダ・メッシーナ書斎の聖ヒエロニムス」、フランドル式の油彩技法はこの画家イタリア招来したか。 1460年頃 - フランチェスコ・スクァルチォーネ聖母子」(ベルリン国立美術館)。 1460年頃 - 【ポルトガルヌーノ・ゴンサルヴェスにより「サン・ヴィセンテの祭壇画」が描かれたか。 1461年 - ブルネレスキ1446年死去設計によるサンタ・クローチェ聖堂パッツィ家礼拝堂完成1430年 - )。 1461年 - ベノッツォ・ゴッツォリメディチ・リッカルディ宮マギ礼拝堂東方三博士ベツレヘムへの旅」完成1459年 - )。 1461年 - デジデーリオ・ダ・セッティニャーノフィレンツェサン・ロレンツォ聖堂サクラメント礼拝堂祭壇完成1461年 - 【トレビゾンド最後東ローマ政権であるトレビゾンド帝国滅亡コムネノス家皇帝ダヴィドオスマン帝国敗れて捕縛され1463年処刑される1461年 - 【フランスフランソワ・ヴィヨン遺言詩集』。 1461年頃 - アントニオ・フィラレーテ建築論』。 1462年 - フィチーノコジモ・デ・メディチよりフィレンツェ近郊カレッジ別荘与えられる。この時期からいわゆるプラトン・アカデミー人文主義的サークル動き出すか(存在の否定説もあり)。 1463年 - ヴェネツィアオスマン帝国との全面戦争勃発( - 1479年)。ヴェネツィアアルゴス奪取ハンガリー王マーチャーシュ1世ボスニア進軍スカンデルベクアルバニア奮戦1463年 - フィチーノヘルメス文書』を翻訳1464年 - 教皇ピウス2世アンコーナ死去後継教皇パウルス2世1464年 - コジモ・デ・メディチ死去、「祖国の父」の称号贈られる後継者息子ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ通称は「痛風病みイル・ゴットーゾ)」。 1464年 - レギオモンタヌスプトレマイオス天文学大全抜粋』。 1464年 - ミケロッツォ・ディ・バルトロメオによりメディチ・リッカルディ宮殿完成1444年 - )。 1464年 - フィリッポ・リッピによりプラート大聖堂壁画完成1452年 - )。 1464年 - アントニオ・フィラレーテ建築論』(1461年 - )。 1465年 - ドメニコ・ディ・ミケリーノによるフィレンツェ大聖堂絵画ダンテ『神曲』詩人」。 1465年 - 【フランスヨハンネス・オケゲム国王宮廷聖歌隊長となる。 1465年頃 - 【フランス】前ナポリ王ルネ・ダンジューの文とバーテルミー・デック挿絵による写本囚われし愛の心の書」。 1466年 - ピッティ家の陰謀事件ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ暗殺逃れ、反メディチ派を鎮圧1466年 - ミラノ公居城スフォルツェスコ城完成する1450年 - )。 1466年 - ウルビーノ伯のドゥカーレ宮殿建設ルチアーノ・ラウラーナ着手する( - 1472年1467年頃 - アルベルティが多アルファベット換字式暗号ヴィジュネル暗号原型)を発明1468年 - 教皇パウルス2世暗殺未遂事件暗殺失敗したフィリプ・カリマクスはポーランド亡命1468年 - カマルドリの討論会フィチーノアルベルティが「至高善」について討議ランディーノの『カマルドリ論談』はこの時の記録1468年 - 枢機卿ベッサリオンギリシア語写本を含む蔵書ヴェネツィアサン・マルコ教会寄贈1469年 - ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ死去後継者はその息子ロレンツォ・デ・メディチ通称は「偉大なる(イル・マニフィコ)」。 なおこの年ロレンツォ・デ・メディチローマ名門出身のクラリーチェ・オルシーニと結婚1469年 - ミーノ・ダ・フィエーゾレ「大司教レオナルド・サルターティの胸像完成1464年 - )。 1469年 - 【スペインアラゴン王フェルナンドカスティーリャ王イサベル結婚。後にフェルナンドアラゴン王フェルナンド2世イサベルイサベル1世となり、連合王国スペイン成立させる1470年 - オスマン帝国が大激戦の末、ヴェネツィアネグロポンテ占領(→1479年)。 1470年 - フェラーラスキファノイア宮殿壁画完成( - 1469年)。壁画担当したのはフェラーラ派コズメ・トゥーラフランチェスコ・デル・コッサ1470年頃 - ピエロ・デル・ポッライオーロ「ある女性の肖像」(ミラノのボルディ・ペッツォーリ美術館)。 1470年頃 - 【イングランドトマス・マロリー『アーサー王の死』完成か。 1470年頃 - 【フランドルペトルス・クリストゥス若い女肖像」(ベルリン絵画館)。 1471年 - フェラーラ侯爵領から公爵領昇格しエステ家のボルソの支配下置かれる同年、ボルソ死去により異母弟エルコレ1世フェラーラ公となり、文化振興策として多数フランドル楽派音楽家招聘アレクサンダー・アグリコラヤーコプ・オブレヒトハインリヒ・イザークアドリアン・ヴィラールトジョスカン・デ・プレなど。 1471年 - フィレンツェ服属していたヴォルテッラから明礬鉱床発見される(→1472年)。 1472年 - ヴェネツィア貴族の娘カタリーナ・コルナーロキプロス国王ジャック2世結婚ジャック2世1473年に、その息子ジャック3世1474年に死ぬと、残されカタリーナキプロス女王となる( - 1489年)。 1472年 - 明礬採掘権をめぐりヴォルテッラ市民フィレンツェ支配抵抗し武装蜂起(→1471年)。ロレンツォ・デ・メディチ司令官フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ派遣し反乱鎮圧する1472年 - シエナモンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行創業(現在営業している銀行では世界最古)。 1472年 - 【ロシアモスクワ大公イヴァン3世東ローマ皇女ソフィアゾエ)の結婚ソフィア東ローマ最後の皇帝コンスタンティヌス11世の姪で、父はトマス・パレオロゴス(→1460年)。 この結婚ソフィア後見人だった教皇シクストゥス4世東西教会合同意図込められていた。 1473年 - 【ドイツ・フランス】マルティン・ショーンガウアー薔薇垣の聖母子」。 1474年 - ウルビーノ伯爵領から公爵領昇格しモンテフェルトロ家フェデリーコ支配下置かれるピエロ・デラ・フランチェスカの「ウルビーノ公夫妻の肖像」はこの時期のものか。 この時期ピエロ・デラ・フランチェスカは『算術論』『遠近法論』『五正多面体論』の三著作ウルビーノ公献呈フランドル人画家ヨース・ファン・ワッセンホフの「12使徒聖体拝領」もウルビーノ公依頼この年完成1465年 - ) スペイン人画家ペドロ・ベッルゲーテの「ウルビーノ公その子息グイドバルドの肖像画」もこの時期のものか。 1474年 - マンテーニャマントヴァドゥカーレ宮夫婦の間」壁画完成させる。この壁画にはマントヴァルドヴィーコ3世・ゴンザーガ一族描かれている、家族集団肖像画としては最初期のもの。 1474年 - フィチーノプラトン神学』の執筆終える。 1474年 - 地理学者トスカネリコロンブスと書簡のやりとり行い彼のアメリカ到達影響与える。 1475年 - トレント血の中傷事件3歳幼児であるトレントのシモニーノ(シモン)の失踪ユダヤ人よるものとして、彼らを処刑追放した1475年 - アントニオ・デル・ポッライオーロヘラクレスとヒュドラ」。 1475年 - ヴェロッキオ工房イエスの洗礼」。ヴェロッキオ弟子だったレオナルド・ダ・ヴィンチ一部担当している。 1475年 - 教皇シクストゥス4世発願システィーナ礼拝堂建設始まる。 1475年 - フィチーノ愛について』(プラトン饗宴』の注釈書)。 1475年 - ポリツィアーノ長編詩『(ジュリアーノ・デ・メディチの)騎馬試合のスタンツェ』を執筆1475年 - 【フランドルディルク・ボウツ皇帝オットー裁判」(ベルギー王立美術館)。 1475年頃 - 【ドイツイスラエル・ファン・メッケネム「モリスカダンス」。 1476年 - ミラノのサント・ステファノ教会にてミラノ公ガレアッツォ・マリーアが暗殺される長子ジャン・ガレアッツォが公位を継承、その叔父ルドヴィーコ・イル・モーロが摂政となる。 1476年 - ジュリアーノ・デ・メディチ愛人シモネッタ・ヴェスプッチ死去1476年 - フィレンツェのサルタレッリ事件金工師ヤコポ・サルタレッリにからみレオナルド・ダ・ヴィンチ同性愛者として匿名告発されるが、証拠不十分で保釈1477年 - 【ブルゴーニュブルゴーニュ公シャルル突進公がナンシー戦死フランス国王ルイ11世ブルゴーニュ併合し、「北方ルネサンス」を主導していた公国崩壊後継者マリー女公ハプスブルク家マクシミリアン1世結婚することでフランス牽制する1477年 - 【ブルゴーニュ】アントワーヌ・ル・モワトゥリエ帰属とされる「フィリップ・ポーの墓」( - 1483年)。 1478年 - パッツィ家の陰謀事件、弟ジュリアーノ・デ・メディチ襲撃され殺害される一命取りとめた兄ロレンツォ・デ・メディチにより、フィレンツェの反メディチ家派が処刑される陰謀失敗の後、反メディチ派の教皇シクストゥス4世は、ナポリ王国組んでフィレンツェ攻撃パッツィ戦争)。 1478年 - 教皇シクストゥス4世スペインカトリック両王異端審問官任免与える。「スペイン異端審問」はスペイン王権強化の手段として発展した異端審問所長官となったのはトマス・デ・トルケマダ1479年 - オスマン帝国との戦争1463年 - )終結講和ヴェネツィアはネグロポンテ・アルゴス・レムノス・シュコドラなどを失う。 1479年 - バルトロメオ・プラティナ『教皇伝』。 1479年 - 【ロシアイタリア人建築家フィオラヴァンティがモスクワ・クレムリン内のウスペンスー大聖堂建設1480年 - ナポリ単身乗り込んだロレンツォ・デ・メディチと、ナポリ王フェルディナンド1世との和平交渉成立1480年 - オトラントの戦いオスマン帝国軍イタリア南部上陸( - 1481年)。 1480年 - ヴェネツィア派画家ジェンティーレ・ベリーニオスマン帝国の都イスタンブール出向く。この時に描かれたのが「スルタン・メフメト2世肖像1480年 - ヒューホー・ファン・デル・フースの「ポルティナーリの祭壇画」がフィレンツェ運ばれる完成1475年)。 1480年 - フィレンツェのヴェスパジアーノ・ダ・ビスティッチが書籍商から引退以後没年1498年)まで聖職者政治家文化人たち想い出をまとめた『15世紀有名人列伝』の執筆いそしむ1480年頃 - メロッツォ・ダ・フォルリによりローマのサンティ・アポストリ教会後陣丸天井壁画奏楽天使完成1481年 - バチカン図書館館長バルトロメオ・プラティナが図書目録作成、この図書館蔵書3500点を数えた1482年 - フェラーラ戦争で、フェラーラ公エルコレ1世・デステ教皇ヴェネツィア連合軍と戦う( - 1484年)。 1482年 - オスマン帝国のスルタン・バヤジット2世の弟ジェムキリスト教側のロドス島亡命する1482年 - フィチーノ、「プラトン全集翻訳完成、『プラトン神学出版1474年 - )。 1482年 - ミラノ公国摂政ルドヴィーコ・イル・モーロがレオナルド・ダ・ヴィンチミラノに招く( - 1499年)。レオナルド長期滞在はこの地にミラノ派と呼ばれる追随者を生み出す、代表はベルナルディーノ・ルイーニ(→1531年)。 1482年 - ペルジーノによるシスティーナ礼拝堂壁画聖ペテロへの天国の鍵の授与完成1480年 - )。 1482年頃 - ボッティチェッリ「春(プリマヴェーラ)」(ウフィツィ美術館)。 1482年頃 - フランチェスコ・マルティーニの『市民建築および軍事建築に関する理論書』。 1483年 - ルイジ・プルチ『モルガンテ最終版出版1483年 - ヴェロッキオバルトロメーオ・コッレオーニ像」完成1479年 - )。 1484年 - 教皇インノケンティウス8世回勅「スンミス・デジデランテス(限りなき願いをもって)」。魔女狩り指南書となった魔女に与える鉄槌』(1487年出版)はこの回勅転用した。 1484年 - 世界最古タロットカードの「ヴィスコンティ・スフォルツァ版」はこの年のもの。 1484年 - 【フランスタペストリー貴婦人と一角獣連作パリ中世美術館蔵)が製作されたか( - 1500年頃)。 1485年 - 【イングランド薔薇戦争終結しヘンリー7世国王に即位してテューダー朝成立1485年頃 - ボッティチェッリヴィーナスの誕生」(ウフィツィ美術館)。 1486年 - ピコ・デラ・ミランドラ自選の「900命題」をもとにローマで哲学神学討論会企画する。この討論会のために書いた原稿は『人間の尊厳について』としてまとめられ魔術ヘルメス主義カバラについても言及教皇庁はこうした命題一部異端だと見做し討論中止させ逃走したピコ捕縛ピコメディチ家助力釈放される1486年 - レオナルド・ダ・ヴィンチ岩窟の聖母」(ルーヴル美術館完成(→1506年)。 1486年 - フィリッピーノ・リッピ「聖ベルナルドゥス幻視」(バディア聖堂)。 1486年 - カルロ・クリヴェッリ聖エミディウスのいる受胎告知」(ロンドン・ナショナルギャラリー)。 1486年 - ジョスカン・デ・プレローマ教皇庁礼拝堂付属聖歌隊一員となる。 1487年 - 亡命ギリシア人であり、フィチーノギリシア語の師であるヨハネス・アルギュロプロス死去1487年頃 - レオナルド・ダ・ヴィンチウィトルウィウス的人体図」。 1488年 - ギルランダイオ工房ミケランジェロ入門する1489年 - キプロス王国女王カタリーナキプロス支配権ヴェネツィア譲渡する(→1472年)。カタリーナ女王の位を退いてヴェネツィア帰国し、一市民戻って1520年死去1489年 - フィチーノ三重の生について』。 1489年 - パオロ・コルテージ『学識ある人々について』。 1489年 - 古代ローマ美術秀作ベルヴェデーレのアポロン」が発掘される1489年 - 【フランドルハンス・メムリンク聖ウルスラの聖遺物箱」(ブリュージュメムリンク美術館)。 1490年 - マントヴァ公フランチェスコ2世・ゴンザーガフェラーラ公イザベラ・デステ結婚1490年 - レオナルド・ダ・ヴィンチ白貂を抱く貴婦人完成モデルチェチーリア・ガッレラーニ1490年 - ギルランダイオによるサンタ・マリア・ノヴェッラ教会壁画聖母マリアの生涯完成1486年 - )。この壁画の「神殿ザカリアス」にフィチーノランディーノポリツィアーノ、デメトリオス・カルココンデュレスの肖像画がある。 1490年 - 【ハンガリーハンガリー国王マーチャーシュ1世死去アルプス以北最大と言われ蔵書コルヴィナ文庫を残す。 1490年頃 - 【フランドルヘールトヘン・トット・シント・ヤンス荒野洗礼者ヨハネ」(ベルリン絵画館)。 1491年 - ミラノ公国のルドヴィーコ・イル・モーロ(バーリ公)とフェラーラ公ベアトリーチェ・デステ結婚1491年 - ベルナルディーノ・カイミによりピエモンテ最古サクロ・モンテであるヴァラッロのサクロ・モンテ造営される。 1492年 - フィレンツェ黄金時代築いたロレンツォ・デ・メディチ死去後継者はその息子ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ通称は「不運なピエロ(ピエロ・ロ・スフォルトゥナート)」。 1492年 - 教皇インノケンティウス8世死去ボルジア家出身教皇アレクサンデル6世即位( - 1503年)。 1492年 - フィチーノ新プラトン主義哲学者プロティノス著作エネアデス』の翻訳出版1492年 - 【スペイングラナダ陥落し最後イスラム国家ナスル朝滅亡レコンキスタ終結1492年 - 【スペインジェノヴァコロンブスアメリカ大陸発見1492年 - 【スペインキリスト教への改宗拒否したユダヤ人スペインから追放される多数ユダヤ人地中海周辺都市亡命(→1535年)、また改宗し残留したユダヤ人マラーノ呼ばれ蔑視された。 1493年 - 教皇アレクサンデル6世により教皇子午線決定される1493年 - 【ドイツハルトマン・シェーデルニュルンベルク年代記』。 1494年 - ナポリ王フェルディナンド1世死去息子アルフォンソ2世後継国王となるが、王位継承フランス干渉1494年 - フランス王シャルル8世ナポリ王国侵攻(→1495年)。翌年までには首都ナポリ占領ローディの和以後安定していたイタリア五大国体制崩壊1454年 - )。 1494年 - フィレンツェからメディチ家追放メディチ家財産没収されメディチ銀行破綻1494年 - ポリツィアーノ死去ピコ・デラ・ミランドラ死去1494年 - サヴォナローラによるフィレンツェ神政政治( - 1498年)。 1494年 - ミラノ公ジャン・ガレアッツォ死去毒殺説あり)、叔父ルドヴィーコ・イル・モーロが公位を継承1494年 - ルカ・パチョーリ算術幾何、比および比例に関する全集』で複式簿記学術的に説明1494年 - アルドゥス・マヌティウスアルド印刷所設けヴェネツィアヨーロッパ出版産業中心地となる。 1494年 - デューラー第1回イタリア旅行( - 1495年)。 1494年 - 【ドイツセバスチャン・ブラント阿呆船』。 1495年 - フォルノーヴォの戦いでフランス王シャルル8世はヴェネツィア・ミラノ連合軍敗北シャルル8世1年にも満たない支配ナポリ放棄復活したアラゴン王家のフェルディナンド2世ナポリ王即位1495年 - カプアにてオスマン帝国帝位請求者ジェム・スルタン死去ボルジア家による毒殺か(→1482年)。 1495年 - ボイアルド恋するオルランド出版1495年 - ヴィットーレ・カルパッチョ連作聖ウルスラ物語完成1490年 - )。 1495年 - ヤコポ・デ・バルバリルカ・パチョーリ肖像」(カポディモンテ美術館)。 1495年頃 - ボッティチェッリアペレス誹謗(ラ・カルンニア)」。 1496年 - ジェンティーレ・ベリーニサン・マルコ広場での聖十字架行列」。 1497年 - ペルジーノ工房ラファエロ入門する1497年 - サヴォナローラの「虚栄の焼却」、教皇アレクサンデル6世サヴォナローラ破門1497年 - 【イングランドジェノヴァカボット父子カナダ到達しニューファンドランド島ラブラドル半島発見1498年 - サヴォナローラシニョリーア広場火刑処される(→1494年、→1497年)。 1498年 - レオナルド・ダ・ヴィンチ最後の晩餐」(ミラノ・ドミニコ会修道院)。 1498年 - ピントゥリッキオバチカン宮殿ボルジアの間壁画完成させる1493年 - )。 1498年 - ヴィテルボのアンニウス古代諸説解説出版(後に『古代雑篇』として再編集)。 1498年 - 【ポルトガルヴァスコ・ダ・ガマ艦隊インドカリカットコーリコード)に到着東回りインド航路開通に伴い香辛料などの東方貿易独占していたイタリア都市緩やかに没落し始め1499年 - フランス王ルイ12世ミラノ公国侵攻スフォルツァ家のルドヴィーコ・イル・モーロを幽閉しミラノ占領1499年 - フランスの支援を受けヴァレンティーノとなったチェーザレ・ボルジアロマーニャ統一乗り出す1499年 - フィチーノ死去1499年 - 匿名作家(フランチェスコ・コロンナ?)による『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』がヴェネツィア出版される。なおグーテンベルク活版印刷の発明から15世紀末までに出され初期印刷本インキュナブラ代表作でもある。 1499年 - 【スペインフェルナンド・デ・ロハスラ・セレスティーナ出版1499年頃 - 【ドイツヨハンネス・トリテミウス『ステガノグラフィア』執筆

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