ハンス・メムリンクとは? わかりやすく解説

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メムリンク【Hans Memling】

読み方:めむりんく

[1430ころ〜1494]フランドル画家ドイツ生まれ調和秩序ある画面構成のうちに柔和な詩情示した肖像画宗教画が多い。


ハンス・メムリンク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/24 12:45 UTC 版)

ハンス・メムリンク
本名 Hans Memling
誕生日 1430年
出生地 マインツ大司教ゼーリゲンシュタット
死没年 1494年8月11日
死没地 ネーデルラント17州ブルッヘ
芸術分野 絵画
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ハンス・メムリンクメムリング[1][2]Hans Memling, 1430年/1440年頃 - 1494年8月11日)は、15世紀フランドル画家

15世紀後半にブルッヘで活躍した画家。ヤン・ファン・エイクロヒール・ファン・デル・ウェイデンに続く世代の北方絵画を代表する画家である。宗教的な主題を、華麗な色彩と、北方絵画特有の細部までゆるがせにしない徹底した写実表現をもって描いた。

生涯

ドイツフランクフルト近郊ゼーリゲンシュタットの生まれだが、主にフランドルのブルッヘで活動している。生年ははっきりしていない。父はHamman Momlingen、母はLuca Stirn、両親は1451年ごろに死去した。ブリュッセルのファン・デル・ウェイデンの工房で修業したと推定され、1465年にはブルッヘの市民権を得ている。1470年には「雪の聖母兄弟団」(Gilde van Onse LieveVrouwe van der Snee)[3]に入団。1480年ごろに, Sint Joris 街に邸宅を購入。1480年 ブルッヘの富家227人の一人として皇帝マキシミリアンに戦時税を支払った。1487年 妻 Tanna逝去。財産を子供3人Hannekin, Neelkin, Claykinと分割した。1494年8月11日 逝去 ブルッヘの聖ヒーリス教会に埋葬。2006年現在、墓石は行方不明。

伝説

18世紀半ば、フランス宮廷画家でもあったジャン=バティスト・デカンが1753年に刊行したLa Vie des peintres flamands, allemands et hollandaisに、「ブリュージュの近郊ダムで生まれたメムリンクは、若いころ無頼少年で、兵士になり、傷病した。その傷ついた身体を看護治療してくれたのが聖ヨハネ病院で、そこで絵を描きだして有名になった。」という、聖ヨハネ病院の誰かから聴いたという伝説を記した。「ナンシーの戦いで負傷した」と付会したのは、1845年に、Histoire de la peintre flamande et hollandaise, Ⅱ, Brussel, 1845を刊行したA.Michielis。この伝説はFierens-Gevaert(1922)で既に、「現在では意味がない」と否定されている。

作風と代表作

シュテファン・ロッホナーロヒール・ファン・デル・ウェイデン,ヤン・ファン・エイクの影響が感じられる宗教画のほか、寄進者像を中心とした肖像画にも優れたものが残っている。メムリンクの作品には、師のファン・デル・ウェイデンのような激しい情感の表出は見られず、画面は静寂感に満ちている。細部の精密描写は北方絵画全般に見られる特色だが、メムリンクは、金属製の鎧の表面に映った鏡像までも執拗に描写している[4]。端麗な古典主義の画家という評価がある[5]。油彩画の総カタログは(Dirk de Vos(1994))、Faggin(1973)、Friedlaender(1971)が有名である。以下、作品番号はVはDirk de Vos、 FAはFaggin、FはFriedlaenderと仮に表示しておく。

  • 最後の審判』(V1, FA1, F8),1467, 三連祭壇画,木製の板に油彩, 1467. 元々はイタリアフィレンツェのフィエーゾレにあるBadia Fiesolana教会の為に作られたものだが、戦争による紆余曲折を経て1473年からポーランド、グダンスク (当時は神聖ローマ帝国領) の聖マリア教会に飾られていた。1972年以降はグダンスク国立美術館館(英語版)に所蔵されている。 虹の玉座に座っているのはキリストで、その周囲には聖母マリア、十二使徒、および洗礼者ヨハネがおり、その上にはキリストの受難のシンボルを持った天使達がいる。天と地の間にいる天使達は最後の審判を告げている。地の中央にいるのは大天使ミカエルで、生き返った霊魂の重さを計っている。右側は地獄で、左側は天国。左の階段にいるのは聖ペトロ[6]
  • 洗礼者聖ヨハネと福音書記者聖ヨハネの三連祭壇画(V31, FA6, F11), 1479,(メムリンク美術館ブルッヘ)(聖女カタリナの神秘の結婚とも名付けられている)[7]
  • 女性肖像(Sibylla Sambethaと後世に額縁に銘文がつけられた)(V36,FA10,F94), 1480, ベルギー,ブルッヘ, メムリンク美術館
  • マールテン・ファン・ニューウェンホーフェの二連祭壇画』(V78,FA13,F14) 1487年, ブルッヘ、メムリンク美術館
  • 聖ウルスラの聖遺物箱』(V83, FA15, F24), 1489年, ベルギー,ブルッヘ, メムリンク美術館。聖遺物箱の表面にメムリンク筆のパネル画を取りつけたものである。カーレル・ファン・マンデル「北方画家列伝」も記載している[8]
  • 受難 多翼祭壇画 (V90, FA16, F3), 1491, リューベック、聖アン聖堂美術館
  • キリストと奏楽天使(Najera祭壇画)(V61, FA35, F22), c. 1480 アントワープ王立美術館
  • キリストの降臨と勝利』(『マリアの七つの喜び』とも)(V61,FA35, F22), 1480, ミュンヘンアルテピナコテーク
  • 受胎告知』 (V84,FA11,F26),(メトロポリタン美術館、ロバート・レーマン・コレクション)
  • 『虚栄と地上の救』小型祭壇画(V64,FA34,F21),, 1485年頃、オークの板に油彩、3枚とも22 x 15 cm ストラスブール美術館

ギャラリー

脚注

  1. ^ 稲村真実「レンブラント『水浴するバテシバ』をめぐるエクリチュール : エレーヌ・シクスー『バテシバあるいは内なる聖書』に寄せて」『立教大学フランス文学』第34巻、立教大学フランス文学研究室、2005年3月、91-110頁、CRID 1050567903511037824ISSN 03877264NAID 110001139901 
  2. ^ 三重県立美術館年報1982+1983 サンパウロ美術館展
  3. ^ 市内の画家や彩色写本師など各種の職人の他、フィレンツェをはじめとする外国商人、ブルゴーニュ宮廷の貴族なども含む会員数200名を超える社交クラブ的組織
  4. ^ 例:『最後の審判』の大天使の鎧など
  5. ^ 岡部紘三 1997.
  6. ^ National Museum in Gdańsk's page on the painting
  7. ^ 洗礼者聖ヨハネと福音書記者聖ヨハネの三連画の各パネルが見られるサイト
  8. ^ 聖女ウルスラの聖遺物箱の各パネルが見られるサイト
  9. ^ King, Donald and Sylvester, David eds. The Eastern Carpet in the Western World, From the 15th to the 17th century, p. 57, en:Arts Council of Great Britain, London, 1983, ISBN 0-7287-0362-9

参考文献

  • 岡部紘三『フランドルの祭壇画』勁草書房、1997年。 ISBN 4326800380全国書誌番号: 98019086https://id.ndl.go.jp/bib/000002598677 
  • Max J. Friedlander van Eyk to Breughel, Cornell Paperbooks/Paidon Books (1981/1956) 邦訳:マックス J. フリートレンダー, ネーデルラント絵画史 ヴァン・エイクからブリューゲルまで(美術名著選書 24) 斎藤 稔/他 訳, 岩崎美術社, 1983
  • De Vos, Dirk; Memling, Hans (1994), Hans Memling : the complete works, Ludion Press, NCID BA23803744 
  • Faggin, Giorgio T. (1973). Tout l'Ouvre peint de Memling. Les Classique de l’Art. Paris: Flammarion.
  • Max J. Friedlader, Early Netherlandish Painting, vol VI,part 1, translated from Alt Nedellandish Marlei(1924-1937) by Heinz Norden, 1971, Leiden
  • Fierens-Gevaert, La peinture a Bruges. Guide historique et critique, G.Van OEST et Cie, Bruxelles et Paris, 1922

外部リンク


ハンス・メムリンク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 13:39 UTC 版)

トリニティ・ブラッド」の記事における「ハンス・メムリンク」の解説

“四伯爵”のアントワープ伯爵芸術家志向自称漂白詩人”らしいが、その芸術センスはあまり褒められたものではないアムステルダム伯爵とは犬猿の仲であり、彼の死後ユーグ捕獲企てるが、警官隊一族郎党皆殺しされる。さらにファン・メーレン家を襲撃するユーグによって殺害された。

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